自宅近くの道にツバメが落ちていた。小さいが雛ではない。両手でそっと抱えて家に戻り、門柱の上に置いた。見上げると、電線で親らしき2羽が並んで見下ろしている。子ツバメは首を回し、自分を見る者を正面から見る。ときどき目をつぶる。猫用心にダンボールの上に乗せた。帰宅するともういなかった。
永六輔著「一般人名語録」(1990)と、天久聖一編「挫折を経て、猫は丸くなった」(2016)に触発されて「句点で始まる物語。」というタイトルの一行本を自分のサイトで作りました。Be my guest if you want.
西の山から日が昇る──。AIに聞いてもろくな返事がないが、母方の祖父はよく言っていた。じっさい大昔のある夏の夕刻、大和から伊勢に向かう近鉄特急の中で体験した記憶がある。いったん沈んだ太陽が再び山から顔を出す。東へ延びる山影からの脱出だった。
「習い、性になる」は、行動が心を作るという意味だけど、裾野が広い言葉です。「ごみの分別をしていると倹約家になる」「教室の机の配置が生徒間の同調圧力を醸成する」「競技を繰り返していると戦争を恐れなくなる」とかいろいろ出てきそう。「でこぼこ道を歩いていると頭がよくなる」これは違うな。
「ボレロ 繰り返し 吐き気がする」で検索するとAIは次のように答えた。──「ボレロ」は、その独特な構造と繰り返される旋律によって、聴く人に様々な感情を呼び起こします。その繰り返しが、吐き気を催すと感じる方もいるかもしれませんが、その理由や対策についていくつか考えられます──(笑)
相変わらずの貧乏生活で倹約も板についた。いまコメが高いが、家族はともかく自分は麦が主食なので影響はない。1キログラムあたり、大麦245円、燕麦は231円。お茶碗一杯分のコストは15円。ご飯の七割引き。なのに貧乏人が食わない。栄養と食物繊維のカプセル状態。味ガチャなし。医者いらず。
待川匙『光のそこで白くねむる』読了。はじめの何ページかで語り手である「わたし」の病的な性質が立ち昇り、それを客観視するいとまを与えない力を感じる。帯では「新人離れした」「強い」「見事」「圧倒された」など、著名な作家が平易な言葉で印象を語る。どれにも当てはまらない。自分だけの感想。
見慣れない拡張子を見ると不安に駆られた。世の中、スマホばかりになると「カクチョウシて何?」となるのだろうか。PCでも初期設定では表に出てこない。スマホは毎日使っていても興味を持てない。アプリも入れていない。ネット以外からは文字しか受け付けないガラスと金属の板。あの不安が懐かしい。
流行りものに接する機会はないのだけど、ぐうぜん Bling-Bang-Bang-Born の動画を見ていて既視感を持った。あれは四十年くらい前、手錠をかけられた海洋スポーツの学校長が、両手首をお顔の前で左右に振っていた。ひかりモノを周囲に見せびらかすように見えた。まあ若かったし。
これを繰り返すとAさんとBさんの持ち分はどうなるか。Aさんは全体の三分の二、Bさんはその半分の三分の一の割合に近づく。AさんもBさんも、「得た分の半分を相手に与える」という同一の行動をとった。持ち分には差がつきものという見方もできるし、善意による差はそのくらいという見方もできる。
無人島に流れ着いたAさんとBさん。ある日Aさんが大量の金を発見した。発見は偶然に過ぎないと考えたAさんは、同じ立場のBさんに半分あげた。Bさんはその半返しにとAさんにその半分(四分の一)をあげた。もらったAさんはそのまた半分(八分の一)をBさんに。Bさんは同様に十六分の一を……。
ふたりの米国人学者が書いた「全員“カモ”」という名の本の中に、「どれほど防衛していても脳はだまされるので、対策として高いものを買わないこと」というくだりがあった。嘘が理性をコケにする前提で、モノ(数という現物)で対抗しようとする案が、しょせん理性には無理かもという諦観のようで草。
「ママのスープは世界一」と主張し合うことで殺し合いになることはない。ママのお弟子が講釈を垂れはじめると、使った調味料を問われ、奪い合いとなり、生産するために森が伐採され、奴隷が囲われる。一番弟子から狂うというのは間違いない。他人に平伏して言葉を丸呑みにする者がいかに危険かを知る。
戦場に残る聖書。結構いいことが書いてあるのに、それを唯一無二だと主張したがために、多数が犠牲になった。殺し合う相手だって似たようなやつを持っているもんね。多神教から一神教へ集約してきた文明トレンドが続く限り、道理のない受難はなくならないでしょう。0神教のアホダラ教に達するまでは。
実家は南向きに縁の下が開いている。妹の話:園芸が趣味だった母は、よく使う荒縄をいくつも丸めて縁の下に押し込んでいた。それがある朝、庭にまき散らされている。どうもカラスめの仕業らしい。巣作りの材料にと盗み出したが長すぎて手に負えなかったか。妹吠えて曰く「使わんのなら片付けとけや!」
妹の話:イオンでアロマスティックを安く買えたのでトイレに置いてある子熊のぬいぐるみのとなりに並べた。次の日、子熊のようすがおかしいのでよく見ると、スティックの先がわずかに子熊の毛先に触れていて、そこから液がほぼ全部吸い出されていた。子熊はアロマの液でずくずくに。毛管現象恐ろしや。
折り目の付いたまま持ち上げることのできるほど、からからに乾いた布巾で台所の水濡れを拭き取ろうとしても、弾いてうまくいかない。あれほど欲しがっていたものが、すっかり失せてしまったあとの肌には、むしろ異物なのだ。この水を、民主主義と名付けよう。故に、民は依らしむべし知らしむべからず。
戦争とスポーツは違いますよ。戦争は自国民を減らして領土の拡大を狙うが、スポーツは自国民を鼓舞してメダルの数を競う。戦争は総動員体制をとるが、スポーツは同調圧力を醸し出す。戦争は偃武ののち講和会議を開き、スポーツは決戦ののち握手をする。似ているのは平和とか命懸けとかが飛び交うこと。