自宅近くの道にツバメが落ちていた。小さいが雛ではない。両手でそっと抱えて家に戻り、門柱の上に置いた。見上げると、電線で親らしき2羽が並んで見下ろしている。子ツバメは首を回し、自分を見る者を正面から見る。ときどき目をつぶる。猫用心にダンボールの上に乗せた。帰宅するともういなかった。
永六輔著「一般人名語録」(1990)と、天久聖一編「挫折を経て、猫は丸くなった」(2016)に触発されて「句点で始まる物語。」というタイトルの一行本を自分のサイトで作りました。Be my guest if you want.
天久聖一編「挫折を経て、猫は丸くなった」。発行は2016年。書き出し小説名作集という副題があるので、手に取ったときには、小説の一行目だけを集めたものかと思っていたが、違った。書かれているのは、各冒頭の一行だけ。続きは読者の想像におまかせという、究極の私小説集。自分なりに作ってみたい。
「習い、性になる」は、行動が心を作るという意味だけど、裾野が広い言葉です。「ごみの分別をしていると倹約家になる」「教室の机の配置が生徒間の同調圧力を醸成する」「競技を繰り返していると戦争を恐れなくなる」とかいろいろ出てきそう。「でこぼこ道を歩いていると頭がよくなる」これは違うな。
「ボレロ 繰り返し 吐き気がする」で検索するとAIは次のように答えた。──「ボレロ」は、その独特な構造と繰り返される旋律によって、聴く人に様々な感情を呼び起こします。その繰り返しが、吐き気を催すと感じる方もいるかもしれませんが、その理由や対策についていくつか考えられます──(笑)
待川匙『光のそこで白くねむる』読了。はじめの何ページかで語り手である「わたし」の病的な性質が立ち昇り、それを客観視するいとまを与えない力を感じる。帯では「新人離れした」「強い」「見事」「圧倒された」など、著名な作家が平易な言葉で印象を語る。どれにも当てはまらない。自分だけの感想。
見慣れない拡張子を見ると不安に駆られた。世の中、スマホばかりになると「カクチョウシて何?」となるのだろうか。PCでも初期設定では表に出てこない。スマホは毎日使っていても興味を持てない。アプリも入れていない。ネット以外からは文字しか受け付けないガラスと金属の板。あの不安が懐かしい。
五十年ぶりの短髪。二センチ半、指二本分だけ切って、と言ったら、指二本分だけ残して、あとは全部切られた。なんか、顔に落ちてくる髪がやたら多いなあと思って目を開けたが、あとの祭。ものすごく謝ってもらったけど気にならない。いつもの注文では成立しない結末に、五十年ぶりの若さを楽しみたい。
これを繰り返すとAさんとBさんの持ち分はどうなるか。Aさんは全体の三分の二、Bさんはその半分の三分の一の割合に近づく。AさんもBさんも、「得た分の半分を相手に与える」という同一の行動をとった。持ち分には差がつきものという見方もできるし、善意による差はそのくらいという見方もできる。
無人島に流れ着いたAさんとBさん。ある日Aさんが大量の金を発見した。発見は偶然に過ぎないと考えたAさんは、同じ立場のBさんに半分あげた。Bさんはその半返しにとAさんにその半分(四分の一)をあげた。もらったAさんはそのまた半分(八分の一)をBさんに。Bさんは同様に十六分の一を……。
車って便利だなあ。自転車ではとても及ばない。雨でも平気だし、家族いっしょに荷物を積んで、遠い距離でもあっという間。車ってほんと便利。そんなふうに思う自分みたいな消費者ばかりになったら、車産業は製造から販売まで頭を抱えるだろう。彼らが抱き合わせで売るもの。それは見栄や立場や高揚感。
「ママのスープは世界一」と主張し合うことで殺し合いになることはない。ママのお弟子が講釈を垂れはじめると、使った調味料を問われ、奪い合いとなり、生産するために森が伐採され、奴隷が囲われる。一番弟子から狂うというのは間違いない。他人に平伏して言葉を丸呑みにする者がいかに危険かを知る。
戦場に残る聖書。結構いいことが書いてあるのに、それを唯一無二だと主張したがために、多数が犠牲になった。殺し合う相手だって似たようなやつを持っているもんね。多神教から一神教へ集約してきた文明トレンドが続く限り、道理のない受難はなくならないでしょう。0神教のアホダラ教に達するまでは。
劇画の掟:不審な音や気配に主人公が「気のせいか…」などとつぶやくとき、気のせいだったためしはない。「やっぱり持つべきものは友達だ」などと口にする人物にろくな者はいない。主人公の額は狭く眉は太く顎は長いのが通例。ティッシュ1個をエサに数万円のサブスクに誘導する姦計にも似た展開が草。
妹の話:イオンでアロマスティックを安く買えたのでトイレに置いてある子熊のぬいぐるみのとなりに並べた。次の日、子熊のようすがおかしいのでよく見ると、スティックの先がわずかに子熊の毛先に触れていて、そこから液がほぼ全部吸い出されていた。子熊はアロマの液でずくずくに。毛管現象恐ろしや。
折り目の付いたまま持ち上げることのできるほど、からからに乾いた布巾で台所の水濡れを拭き取ろうとしても、弾いてうまくいかない。あれほど欲しがっていたものが、すっかり失せてしまったあとの肌には、むしろ異物なのだ。この水を、民主主義と名付けよう。故に、民は依らしむべし知らしむべからず。