夢の中の自分に腰を抜かしている
2016年1月6日(水)
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用事があるから出向いているのであって、決して暇などではないのだが──。
顔と名前は知っているが、さほど親しいわけではない、ほどほどの人と、偶然に道で出会うことがある。
Xさん(仮名)もそんなひとりで、しかし自分の顔を見るなり、安くていい郭があるから、これからいっしょに行こうと誘ってくる。
──若いのが揃ってるんだよこれが。ナニの方もね。
ひゃっひゃっひゃっと、平家蟹の甲羅のような顔から白い息を吹き出して笑うXさんに圧倒されながら、しばらく憮然としていた自分だったが、しばらくすると、これも世に言うセレンディピティではあるまいかという考えが沸いてきた。
自分は女郎買いなどしたことがなく、そんなことは品のない行為だとして、避けて通してきたのだけど、やはり直感というのか、現場ならではの閃きによるものは業が強い。
あくまでXさんに釣られて、という風を装いながらも、自分は生れてはじめてかの場所の門をくぐったのである。
なんだかんだで部屋に通されたが、やばいとは思った。すでに数人の人がいるのである。郭の従業員と見えた。これから行為に及ぼうという際にも立ち去ろうとしない。そればかりかカメラや照明などの機材を調整しているようなのである。
しかし、ここが自分の困ったところ。僕の悪い癖。「ようなのである」というのは、それらを背中で察しているからそうとしか言えないのであって、すでに自分は目の前に上半身裸で横たわる娘、これより始まる人類共通の営みの相手を見定めるのに、集中力の大半を注ぎ込んでいるのだ。我ながら呆れたやつである。
女は十分に若く、キュートである。その張りのある肢体には、幾度も人の肌を経てきたような業務用の潔さがある。言い換えれば、ある種の清潔感があったのだ。わずかに肌から、ある植物系油脂の香りが立っている。
自分は人類共通の作法に従い、滞りなく行為を続けた。その間、件の連中は、後ろから脇から、写真を撮りまくっている。なぜ拒絶しなかったのかという当然の問いには、しかしながら返答に窮する。連続するシャッターの音も、背後で焚かれるフラッシュも、存外快いものだった。被写体が得るといわれる高揚感なのか。主役である自分たちだからこそスタッフが懸命にサポートしているのだ、という気分にさせてくれる。いままで経験することのなかった種類の楽しさである。
ところが、つつがなく行為が終わり、我に返った自分は、のちに愕然とする。
部屋に入ってきた郭の男から手渡された紙片は、きわめて高額の請求書──十八万何某かの法外なもの──であった。
男の立ち居振る舞いは、まったくもって紳士的で隙がない。うつむき加減のその姿からは誠実さすら漂わせている。
料金システムについては事前にくわしく説明した。それにはこの子が特別な扱いが必要であることも含まれている。あなたの同意のない事柄は、当方はいっさい行っていない。
だから約束どおりに払ってくださいよと懇願するかのような態度から、はめられたと気づいた。男の仕草もシステムも、この店のすべてが周到に練り上げられている。表面がつるつるの、巨大な壷に落とされた気分だ。逃げようがない。文字どおり手がかりがない。いちどきりで十八万。Xさんはどこへ行った。あいつグルなのか。十八万──。
──ただ、料金を七千五百円にするコースもあります。
ややあって男の口から出た言葉に、すがる思いで続きを待つ。浅ましくも、意外な安さに安堵している。なるほど世の中、そういう落とし所があるものだと、瞬間に理解してしまった感が胸先を走る。敵に完全に振り回されている。
──さきほど、スタッフが撮らせていただいた写真と動画ですが、これを弊社で使わせていただくことをお許しくだされば、正規の料金から九十六パーセント引きの七千五百円となります。別途消費税がかかりますが。
ちょっと待て。自分には、家族もいれば眷属縁者も多数いる。おだやかな暮らしに囲まれている。そんなものばら撒かれたんじゃたまらない。七千五百円はたしかに安いが、あの絵を持っていかれるのは、絶対にNGだと即断した。
──あのねえ、あんたら。そういうのは契約して、ちゃんとしたモデルさんを使いましょうよ、ね。きっちりしようよ。勝手に撮ったんじゃだめだろう。そんなやり方があるか。そんなもの絶対に使わせん。
作品の品質を高めるために言っているんだと装ってみたものの、きゃつらはまゆひとつ動かさない。
──では、正規の料金をお支払いください。税込で二十万二千五百円になります。
ちょと待て。ちょと待て。自分には、家族や眷属縁者はいるが、金はない。ないものを取られたんじゃたまったものではない。写真のご利用はもちろん、二十万二千五百円也も、これまた絶対にNGだ。
頭に血が上った。と同時に、ここはきちがいのふりをするのがいっとう得策だと判断した。
自分は、部屋にある扇風機の形をした備品の根元をつかんだ。ずっしりと重いので、かなりの効果が見込める。頭上で振り回しながら、「黒の舟唄」の出だし、「男と女の」部分のリズムで、頓狂な大声をあげるのである。「男と」で一周、「女の」でまた一周。意味不明の胴間声に合わせてこれを何度も繰り返すと、我ながら、ああ、きちがいなんだなあと実感する。
客の態度の激変に、ややひるんだ従業員どもの隙を衝いて、自分はその恰好のまま、遊郭の外に出た。従業員は遠巻きに、それでも追う素振りがある。
男と女の──。だが、出ている声は、「おーこーら」「おーのーら」のような、意味のない発音である。扇風機は回し続けている。これを止めると、リズムもきちがいも維持できない気がしている。
自分の向かった先、敷地の向こう側に道路が見える。通行人がいくらか行き交っている。堅気の世界にもどったような安堵感があった。通行人に見られることは、自分にとって有利だ。追ってくるやつらも諦めるだろう。
そう思った瞬間、空から一羽の鷹が舞い降りてきたかと思うと、自分の右肩を叩いた。鷹は、もうちょっとで声を出すところだったよ、というような態度で、自分を強く何度も叩き続けた。
まあ、そういう夢だったのであるが、この夢が示唆するものは何か、どんな教訓があるのかと問うに、特段、なにもないのである。
はて、はじめに、あれは何の用事で道を歩いていたのか。どこへ行こうとしていたのか。前に何かがあったのか。冒頭からそこまでがすっぽり抜けているのは、まるで生れる前の世界のようだ。
これが初夢だったなんて、自分でも納得できないけど、コントロールできないから。
Update:2016-01-06 Wed 14:41:03