裂帛。
先日、ひさしぶりに厚みのある小説を読み通したところ、途中でこの言葉に出くわした。
いいなあ、裂帛。この言葉の響き。れっぱく。れっ……っぱく。
「れ」と発音し始めるときの舌と、直後の促音に続いて半濁音「ぱ」を発生させる上下の唇との連携が絶妙である。
裂帛。大好きだ。
ひと目惚れ、ひと聞き惚れである。とはいえ、意味もわからんで喜んでいてもしょうがないので、広辞苑で引いてみる。
うちにある広辞苑は、昭和四十三年製で、二十二年前に名古屋の古本屋で買ってきたものである。裏表紙の見返りに、鉛筆で「1500」と殴り書きの跡がある。背表紙がなくなってしまったので、厚紙と赤いガムテープで拵えてあるのだが、これがなかなか可愛い。
さて探そう、裂帛を。ラ行の終わりごろを探すわけだから、左に一割、右に九割くらいのところに当たりをつけて、ふたつに割ってみる。
ところが、終わり九割のあたりは、いまだマ行で、ラ行はずっと後の方だ。そこで指先をさらに巻末方向に進める。
マ行を過ぎヤ行が終わり、やっとラ行に入ったと思ったら、「りょくれ──りれえ」と右肩に書かれた二千三百三十ページに、異様な挿絵があるのに気づいた。
この孔雀みたいなのはいったい何ぞと思ったが、それは「旅人木」という木のイラストらしい。マダガスカル島原産で、高さは十メートルになるという。
マダガスカルといえば、わがミヤコ(と、「A Real Me!」で出た)、輪尾狐猿の故郷。ワオキツネザルといえば、リングテール。アニメ映画マダガスカルからスピンオフした「ザ・ペンギンズ」はよかった。DVD版では、ワオキツネザルのキング・ジュリアン役の声優は佐藤せつじさんで、まさにはまり役。ちょっと歌手のダイゴさんに似ているんだな。所ジョージさんのようなひょうひょうとした言い回しで、しかも所さんよりうまいと思う。顔が似ているだけあって、ダイゴさんの声も似ているなあ。ああ、そうだ、ラ行の裂帛。先を急ごう。
しかし、見てはいけない見てはいけないと思いつつも、文字の方から勝手に飛び込んでくる。同じページで、「呂律」……「りょりつ」と読むのか。ロレツと同じ意味か。「膂力」……筋力、腕力のこと。知っている知っている。
その下の方に、またけったいな挿絵がある。リラという名前の竪琴のような楽器のイラストで、古代ギリシャ・アッシリアなどで用いたという。
アッシリア? 聞かないでもない。社会科も苦手だったけど、むかしの耳に残っている。懐かしい感じ、アッシリア。だいぶと古い国の名前だ。ちょっと見てみよう。
これはすぐに引けた。アッシリア【Assyria】。チグリス川上流のアッシュール地方のこと。前十八世紀頃から前七世紀にわたって、アッシリア王国が栄えた。前六〇六年、カルデア・メディア連合軍によって滅ぼされた。要は今から二千六百二十年前には、それまでの千年の長きにわたる統治に終止符を打っていたと。いやさ、打たされていたと。哀れよなあ。
なんか、このカルデア・メディア連合軍、気に入らんなあ。いったいどんなやつらだ。カ行は近いので引いてみよう。知らぬ間に、アッシリアの載っているページに中指を挟んでいる私。
カルデアーじん【──人】。セム人の一種──。セム人。記憶がある。セム人。セム人。あれ? 通り越した。セレベス。インドネシア共和国の一島。フィリピン群島の南、ボルネオとモルッカ諸島との中間、赤道にまたがる大島。あれあれ、あの赤道付近にある、カメとクマが向き合っている間にある、手長猿のような形の島だ。いまではスラウェシ島というらしいが。
そういえば、三洋堂書店の古本コーナーで買った「マレー諸島」という大分の一冊。二段組はお買い得感。でもまだほとんど読まずにいる。目次にセレベスがあった。セレベス。エルマーの冒険の雰囲気が漂う。あれに出てくるどうぶつ島がセレベス? じゃあクランベリー港は? ぴょんぴょこ岩は?
いかん、俺は何をしているのだ。アッシリアに戻らんと。いやいやカルデア人? ちがう、セム人、もうひとつあったなあ。あの竪琴はどうなった? なんという名前だったか。「リリツ」違う。「リル」? 違う。それは「上海帰りのリル」だ。上海──。
何か忘れているような気がする。そう、マダガスカル。俺のミヤコ。あの「A Real Me!」で、俺はもっといい成績を出せたはずだ。あのときはちょっと眠かったから。それで、それで、エルマーに出てくるカメは、パプアニューギニアの象徴? 竜が主役。いいや黒猫……、みかん島行ってみたい……。
「もう何回言わすの! 片付かんやろ! はよ降りてきてっ!」
階下から、夕食の支度ができたという意の、家内の金切り声。
その台詞や甲高く。一秒以内にやってのける。まさに……まさに、裂帛の一閃。
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