先日、家族で近所の極楽湯という銭湯に行ってきました。
お湯からあがって身なりを整え、風呂場の出口まで来たときです。反対に、入ってくる親子連れと、ちょうどのれんのこちらと向こうで鉢合わせしそうになりました。
そのとき、相手の四十歳代くらいの父親が言ったひとこと。
──あれ、こっちじゃなかったかぁ?
どうも、のれんをはね上げてわたしを見たせつな、間違って女湯の方に入ってしまったと勘違いしたらしいのです。たしかにわたし、髪の毛は長く伸ばしています。けれども顔は男そのものです。となれば、見られたのは、顔の中心よりも輪郭が先だったということでしょうか。
敷衍すれば、人が対象を認識する瞬間には、まず外側、次に内側という順番で、さらに押し広げて考えれば、中身よりも外見が、本音よりも建前が、内心よりも行動が、優先されるのでしょうか。
なんだか、そのとおりだという気もします。のべつ他人と接するごとに、いちいち内面を問うていてはことが運びませんから。第三者と認識を共有しやすい「外観」は大事な要素なのでしょう。
むかし「人は見た目が9割」というタイトルの本がありました。わたしはそうは思いませんけど、結局、買ってしまいました。もちろん、中身は見ずに、カバーのタイトルに引かれてです。
つまるところ、わたしの中では、本も「タイトルが9割」なのか。
お菓子などでも、外側はかりかりに硬くて、内側は空洞というものがありますが、あれはけっこうおいしいものです。
味を求めるあまり、むしろ中身のなさを期待される。
いろんな場面に当てはまりそうです。
反対に、見た目が1割というケースもあるでしょう。
宇宙戦艦ヤマトはw、動き出す直前まで、外観は沈んだ残骸のままだったし。
さなぎは、羽化するまぎわまで、そう呼ばれるし。