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超高齢者が口を揃えて言った「やり残したこと」
2014年10月14日(火)
 ある中小企業の社長さんと、店舗兼事務所で話をしていたとき、お互い、少し言葉に詰まった瞬間があった。ドラマでは描かれることのない、異物のような沈黙の時間だ。
 そんなとき西洋では、『ふたりの間を天使が通った』などと言うらしいが、あいにくそこは津市久居の準工業地帯であったので、目を凝らして見ていたのだが、多分通っていないと思う。

 私はこういうとき、黙って相手の出方を待つほうだ。

「そういえば、テレビで言うとったかなあ」と社長が、ふたたび切り出したとき、話の内容はすっかり変わっていた。
 ──八十九十の高齢者に、『これまでの人生で、何かやり残したことはありますか』ってアンケートを取ったんやけど、そのときいちばん多かった答えはなんやと思う?

 それを聞いて、当ててみせることが恰好のいいことのような気がして、私は本気で考え込んだ。
 なんだろう──。恋愛? 起業? 世界一周? 散財、浮気、勉強、奉仕、移住、それから……、それとも、あんがい離婚だったり? 候補は、みな自分の狭い了見の内に納まっているようだ。いくつか口に出してみたけど、社長はいずれにも首を振る。そのぶんじゃ当たらんなあと悟ったのか、あっさりと教えてくれた。

 ──それな、冒険らしいわ、冒険。冒険がしたかったという答えがいちばん多かったって。

 冒険という言葉だけでは、具体性に欠ける。アンケートで多く選ばれたのは、おそらく選択肢の上の方に「冒険」という項目があったせいだと想像したのだが、しかし私は黙っていた。
 八十九十の高齢者なら、還暦を過ぎた社長の、親の世代に当たる。社長はその番組を見ていて、自分の親のことを思い浮かべたに違いない。何か心残りなことはないのか、いまからでも間に合うことはないのか──。
 私はふと、思いつくままに口にした。親が気がかりな社長の気持ちに添って、もっと言えばお愛想で。

 ──でも、やり残したのが『冒険』というのなら、ほかでもない幸せな人生だったんでしょうね。

 言い終わった瞬間、決まったな、と自分なりの手ごたえを感じた。言葉が人の心に届く瞬間に立ち会ったような気がしたのである。社長はこの言葉にきっと共感してくれると思った。老いた両親の心情を気遣う社長を、背後から励ます言葉としてふさわしい。ちと斜め上から見下ろすような角度にはなるが。発生した直後から発酵を始めた手前の台詞に酔ってしまっているなあ、俺。
 ところが、社長のほうは、と見ると、何の素振りも見せない。私としては、深く深く頷くか、「そういうことだな」、「あんたもそう思うか」などと相槌を打つくらいはしてくれるものと期待していたのだが。むしろ、机の上に散らかっている、『貴金属買取ります』という、買取りチェーン店の折込チラシの方が気になりだしたようで、らちが明かない。いよいよ人というものは何を考えているのかわからんなあと思いながら、いとまを述べて店を出た。

 駐車場に停めてある車に乗り込んでドアを閉めてから、「一度はサラリーマンになってみたかった」と声に出してみた。死ぬ前の台詞なんて、そうたいしたものじゃない。
 今際の際に「一度は蕎麦をつゆにどっぷりと浸けて食べてみたかった」と悔やんで死んでいった江戸っ子がいたそうだ。
 彼にとっては、それが冒険だったのだろう。

Update:2014-10-15 Wed 00:18:04 ページトップへ
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