チーズを入れるひと
2013年6月20日(木)
「みなさんは味噌汁に何を入れますか」
四十年前、小学五年の家庭科。先生の質問は穏やかだった。
ネギだ豆腐だとやかましい中で、先生はカツカツと黒板に書き出していったが、僕がマーガリンと言ったところでチョークを止めて振り返った。
マーガリンを入れるの? 本当に?
教師のあきれ顔に呼応して周囲の嘲笑が始まる。
本当だ。父はいつもそうしていた。でも僕は咄嗟にこんなふうに言って誤魔化した。
チーズも入れるよ。
案の定、クラスのざわめきは勢いを増す。
でも僕は嘘を言っていた。そんなひとは知らない。味噌汁にチーズを入れるなんて。
クラスが笑った。
先生も笑った。
僕も笑った。
チーズを入れるひとのことを。
笑われて当然のひとのことを。
Update:2013-06-20 Thu 20:22:20
自殺の理由
2013年6月20日(木)
老舗の書肆が軒を連ねる学生の街──。
そういう風景を、田舎に生まれ育った自分は知らなかった。
自分は、はるばる都会に出てきた田舎者の蝿なのである。ある書店の売り場へと、人の流れとともに運ばれてきた。
新刊の平積みの上に止まり、たったいま目の前をかすめた腕の行き先を眺めている。
書架から抜き出そうとして、若者の白く巨大な人差し指が伸ばされていた。
本は黄色味を帯びたベージュ色の装丁で、『自殺の理由』との表題があった。
手に取った若者はハードカバーの表紙を返し、目次を見ようとしている。
自分は目をつぶって、人間だったときのことを思い返していた。
『海亀のスープ』と名付けられた有名な問題がある。
古かろうが既出だろうが、わたしには重大である。
この問題文は、こう締めくくる。
──どうして船乗りは自殺をしてしまったのだろうか?
解答はさておくとして、わたしが注目するのは、自殺をした理由を問われて、答を出そうとする解答者の姿勢である。
わたしは問題を出した友人に逆に聞き返した。ふたりとも真面目な青年だった。
──いったいみんなが「ああそれじゃ自殺しても無理ないね」と思えるような、そんな理由がこの世にあるのか。あると思う方がおかしいんじゃないか。
助手席の友人は、面倒くさそうに、あるとしろ、と言ってまた黙り込んだ。
いっぽう文学においては、偉そうに言うが、この態度(納得のできる自殺のように「死」を文脈に置くやり方)は命取りになるのではないだろうか。
あくまでも死は異物であり、厄介者であり、面倒くさくて、とうてい受け入れられないものである。
自殺はそれでも起こる。
理由において80点をもらったから生じたのではない。
合格点などない。
わたしは、なかなか解答にたどり着けなかったが、たとえどんな正解を聞くにしろ、こう言い返してやろうと思っていた。
──そんなことで自殺なんかするかよ。
でもだめだった。
わたしは正解を出してしまった。
ああこれが正解なんだと認識しながら。
それなら船乗りを自殺に追いやったのは、自分かもしれないと思いながら。
……。
いくらかページを繰っていた指の持ち主は、短く嘆息して、本を元の棚にはじき返した。
何かつぶやいていたけれど、蝿の自分には聞き取れなかった。
Update:2013-06-20 Thu 20:21:32
ペンで作った死者に指を差される
2013年6月20日(木)
親友と死に別れるのはつらいものだ。
といっても自分にはそんな友人がいたわけではないので、想像でものを言っているに過ぎないのだが──。
……子どものころから続いている友がいた。好みも性格も違うので意見は噛み合わず、けんかもよくしたけど、ふたりはお互いの気持ちを心の中に咲かせることができた。彼もそんなふうだったという確信がある。顔を見ていればたいていのことはわかった。
そのあいつが湾岸道路で死んだ。大型貨物からのもらい事故だった。
一報を入れてきた相手の声が役者の台詞のように響く。落ち着いて聞いてと言われて、はいと答えた。耳で聞いているのに、文字を読むようにぎこちない。通話が終わるとそのまま閉じた携帯を見ていた。深呼吸して自分を確かめた。
ひとは徐々には死なない。鮮やかな切り口を見せて死ぬ。生きていたときの慣性が残ってしまって、現実との不連続に戸惑う。
「そんじゃ、またな」「あ、また」
そう言って自転車に高乗りしたまま夕日の中に紛れてゆくうしろ姿の中学生が、ふいに思い出された。あのあいつに、もう会えないのだ。そんなふうに何度も自分に言い聞かせなければ、この現実がつかめない。
ひどい事故だったというが、顔だけはきれいなままだった。直感があった。自分に会うために残してくれたんだ。もしかしたら彼の声が聞けるんじゃないか。一縷の望みをたよりに顔を近づける。彼の唇がわずかに動いた。自分だけには聞こえる。ひとことももらすまいと耳をそばだてる。
「ペンで人を殺すのは自由だ。その先っぽで他人の臓腑を突くのでなければ。では聞くが、どうしておれを選んだ。おれが死ぬことが、お前にとって異物ではなく、予定調和なものだからか。お前の人生には、おれの死がよく似合うのか。おれの棺をゆすって慟哭する、そんなお前の姿を、じつは他ならぬお前自身が見てみたいからではないのか。心の複雑さを装うお前に、いま黒白(こくびゃく)のみを問う。自分自身に答えろ」
Update:2013-06-20 Thu 20:20:27
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