不磨の大典は寝小便に通ず
2014年11月18日(火)
何が怖いと問われるに、寝小便と答える。
かつて怖かったものが、いまでも怖い。
「確かにそこに便器があった」からこそ出したのに、あとからそれは幻影だったと思い知らされるという恐怖は、余にして並ぶものがない。
無論、おとなになってからすることはないが、するかもしれないという恐怖が、いつも付きまとっている。
あるときから、おのずと知ることになる。
自分はどんなに手を尽くしても、夢の中でいまあるこれは夢なのだ、と判ずることができないのだ。
現実は現実。それはわかる。戯れに、いろいろためしてみる。柏手を打つ。色を見比べる。まばたきをする。計算をする。できるできる。
でも夢の中も現実。夢の中でも同じ実験して、できるできる、ああやっぱりね、現実なんだな、と納得している。
こんなやつが、朝まだき、膀胱にしっかりと溜め込んでいたならば、いったいどういう按配になるのか。
──おお、ちょうどいいぐあいにトイレがあるではないか。世の中、なかなか捨てたものではない。ちょっと壊れかけてはいるが、特に問題はなかろう。では狙いを定めて、ジャーーー。
何がなかろうか。大問題である。
こういうときは、直前で目覚めるのだが、この先、必ずそれができるという確信がないのが困る。
この前もそうだった。
いま思えば、得体の知れない大学の構内。尿意を我慢してイライラしているのに、探せども探せども、どのトイレも、どこか少しずつ壊れていて、使い物にならない。
やっと見つけた、まずまずの代物。やれうれしやと、腰をまさぐり、さて始めようとした瞬間、閃くものがあった。
午前三時半。けっこうあぶなかった。
三分の一くらい眠りながら、階下に降り、便器の前に立つが、怖くてしかたがない。これが現実だとはわかっている。しかし、夢の中でもそう思うに違いないということを知っているからだ。
急遽取りやめ、居間に入ってテレビを付ける。漁船で漁師が沖を見ている。きれいな景色だ。でもまだ信用できない。
爪先立ちになって、その場でひと回りしてみる。案の定、少しふらつく。水屋で腰を打ってうめいている。夢の中ではこれほどあほではないかもしれない。でもまだ信用できない。夢かもしれない。
なおもあれこれ手を尽くし、納得してから、トイレで出しながらも、「いま目をつぶったら、つまり結局は夢の中であって、気づいたときには確実にふとんの中でしているのだろう」などと、矛盾に満ちた予感がいやましに沸き立つ。
それゆえに、目をかっと見開き、株式会社INAX製便器の注意書きを声を出して読んでいる。いつか家人が気づくのではないかと気を揉みながら。
こんなことで、この先、自分は制御しきれるのだろうか。これはもう、物理的に水分を絶つしかない。麦茶はもちろん、寝る前の炭酸水などご法度、ご禁制の品であると心得よ。
すると今度は、テレビの画面に目を細めた医者が現れて、赤い口を開けて朗らかに告げるのだ。
──寝る前には水分を取らないと、脳梗塞で死にますよ。
ああもう俺は、死ぬるか寝小便をするかの、どちらかしか残された道はないのか。
自分は信じやすい性質である。まんまと言いくるめられる。不磨の大典であると信じていたものが、砂上の楼閣であったことを知ることになる。
寝小便が怖い──。
そりゃあんた幸せなんだよ、と笑う人もいるだろうけど。
気にならない人たちも、けっこう幸せ。
Update:2014-11-18 Tue 23:21:37