いまかわせみが飛びました
2016年8月4日(木)
自分みたいなふつうのひとの日常は、たいてい、お話にならない。
事実は小説よりも奇なり、という。しかしそれは、リアルを演出するために物書きが見繕った情景の範囲を、ときにじっさいの出来事が逸脱するという事象を指しているに過ぎないのだ。
この寸言を逆から見ると、この有り得べき範囲は事実しか越えることを許されない、起こり得るからという理由でもって筆で書き進めることは相ならぬという、作家への警句ととることもできる。べらぼうな出来事は事実のほうにまかせておけと。畢竟、小説は標準的な事実よりも少しばかり奇なり、とすることでおおむね及第する。
この夏の夕刻は、自分はつとめて自転車で外に出るようにしている。いち日の四分の三が過ぎ、西日が経ヶ峰の北肩に触れてから一時間あまり、細くてこれまで足を踏み入れたことのない海岸近くの路地や、山中に開かれた団地へのアクセス路など、その日の思いつきにまかせて、十キロメートル前後の距離を走る。回数を重ねるにつれて距離が伸びてくる。
ふつうの生活に倦んでいた、とまでは言わないが、これまで見過ごしてきた何かを見つけられればと思う気持ちがある。助平根性だなと自分でも思う。それでも日常はしょせん日常。蝶ネクタイをしたブレザー姿の小学生にも、空を飛ぶ青い丸だぬきにも、これまで出合ったことはない。
その日は、ある二級河川の河口部に来ていた。川の規模に比べて河口の幅はきわめて大きく、汽水域も広い。自転車を止めて堤防道路から見下ろすと、アシだかヨシだか知らないが、地味黒い植物が泥のような湿原に群生し、海岸に向けて連なっているのがわかる。
潮風あびてたくましく……というのは、小学校の校歌にあったけど、ここいらの潮風は、伊勢湾西岸一帯のテレビアンテナをことごとく錆びつかせ、そのおかげでケーブルテレビの普及がすすんだことよなあ、いいのか悪いのかは知らんが、などと思案しながら、目は水平線の向こう、自分の幼いころにはアメリカ合衆国の領土に違いなかった、愛知県は南知多町役場あたりの海岸線をにらんでいた。
──いまかわせみが飛びました。
ドラマのように、聞き覚えのない声に振り返った、というのではない。声の主は、自分の斜め前から、まるで環境チラシを手渡すNPO法人の職員のように近づいてきた六十過ぎの女性で、薄ら笑いと眼鏡の奥にうるんだ瞳を携えている。
──かわせみですよ。あっちに飛びましたね、いま、あ、あそこ。
かわせみという鳥らしい。背中に緑の線が入っているあれが特徴なんですという。見つけました見つけましたよと、まだはしゃいでいる。出会えたよろこびで、両手の上半分どうしをたたき合わせて跳ねる少女のようにも見える。
逆ナンパ、なわけないよな、といぶかった自分は、それだけでじゅうぶん下衆だった。女性の視線の先に、自分のそれを重ね、つきあうふうを装った。
かわせみ──。こんなどす黒い植物を堂々と生やした、塩水か淡水かも判然としない、そりゃ、一掬すすればわかるかもしらんが、こんな泥沼を好む鳥なぞの、いったいどこに惹かれるのか。かわせみ──。たしか、家にこの鳥の木彫があったような。
それにしても、女性の容子は懸命のふうである。あ、あっちに。あっ、いまコンクリの向こうに隠れましたね。あー、あれだと見えないか──。
女性は、鳥を指す右手の人差し指と、最前から自転車で汗だくの自分の顔とを交互に眺めながら、堤防道路のすれすれを南に向かって漫ろ歩く。釣られた自分も、自転車を置いたまま、ほうほうと梟のような相槌の声を出して後に続く。
──ごめんなさいな。いきなりで驚かれたでしょう。うれしくてつい声が出ちゃった。
なんとも妖艶な口吻である。なおも言葉を継ぐ女性の風貌を見改めると、八千草の姪で二年前まで小学校の教頭をしておりました、お会いできるこの日を楽しみにしておりました、とでも言い出しそうな顔色で、むろん、そんなわけはないのだが、たしか、事実は小説よりも奇なり、もしやのときには、や、自分には妻子がありますからと固辞しようと身構えていたのだが、思いのたけの文目は、やはり小説のほうに分があるようで、彼女が会える日を待ち焦がれていた相手は、やはりかわせみさんのほうであり、なおもうわの空の自分に向かって、どこやらかのどぶ川の名前やら、この鳥めを見つけるのがいかに困難であるかを、とうとうと並べ立てたのだった。
そのときの自分は、唐突にも、テレビ司会者の羽鳥慎一さんになったような気分で直立し、あそうですか、ああそういうことでしたか、と棒を飲み込んでいるような表情で返していた。そうしてゆっくりと事態が転じてゆくさまを認識していたのである。
南の空に目を転じれば、妻の顔が浮かぶ。へっ、小説じゃああるまいし、決してそんなことはないのだが、自分は臍下丹田に力を込め、踵を返すと、自転車に向かって一歩を踏み出したのだった。
Update:2016-08-04 Thu 21:28:52
パラドクス・パラドクス
2016年4月7日(木)
パラドクス・パラドクス
パラドクスという言葉から、謎めいた響きを感じていました。
パラドクスといえば、あのアキレスと亀のお話。いまでも見聞きすることがあります。ゼノンのパラドクスなどと呼ばれている有名なお話です。曰く──。
いかに足の速いアキレスといえども、ハンディキャップをもらって少し前に出発した亀に追いつくことは決してできない。なぜならば、先行する亀に追いつこうとするアキレスは、追いつくよりも前に、まずそれまで亀のいた場所にたどりつくことが必要であるが、ところが亀はその間に、いくらか前に進んでいるため、両者の距離はいぜん残っている。この距離を、はじめのハンディキャップに置き換えて、先ほどの動作を行ってみても、両者の距離は小さくなるとはいえ、ゼロにはならない。亀の歩みはのろいが、ゼロではないため、ある時間を与えられれば、必ずある距離を進む。ゆえに、これを何度繰り返そうとも、アキレスと亀の距離は、回数ごとに小さくはなるが、ゼロにはならない。しかして、アキレスは亀に追いつけない。いわんや、追い越すことなどできない。
三十何年か前、はじめてこの話を知ったとき、このパラドクスを解き明かしてみようと思いました。前半の命題は、完全に正しい。しかし、それから導き出されるとされる、追いつけないとの命題は、もちろん受け入れられない。
それならば、これはどうだと、──。
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無限小という概念は、頭の中にはあっても、このぶよぶよとした現実世界には存在していない。もし無限小が存在すると仮定すれば、指と指の隙間を操作するだけで、分母が何億何兆もの大きさの分数を無限に作り出したり、あるいは、ビスケットの割れ方ひとつで、大量の情報(たとえば小数点以下、何億何兆桁の数字の羅列)を蓄えることができ得る。そんなことは現実にはありえない。
現実の世界では、距離にしても時間にしても温度差にしても、固有の「最小サイズ」があって、あらゆる物理量は、それぞれの整数倍の値で測定されるのだ。もしその最小サイズ未満の端数は、その部分につき、0 であるとみなされる。
ひとつの例として、かりに長さの最小サイズを 1メートルだとすると、たとえば 2.5メートルという長さは決して計測されることはなく、2メートルとの結果を得る。長さの最小物理量が1メートルなので、それの整数倍しか、この世では観測されないのだ。
となれば、ぎりぎりまで(最小単位の長さまで)アキレスに迫られた亀は、ある与えられた時間内には最小単位ひと粒の長さを進むことができず(すなわちその時間だけ静止している)、次の瞬間ひと粒を進んできたアキレスに並ばれてしまう。その後は、両者同時スタートの結果と同じだ。「この世の長さ」とはそういうものなのだ。
すなわち、アキレスはきっと亀に追いつくだろうと、われわれが簡単に想像できるのは、われわれ自身もこの世の構成員であり、無限小をもたないこの現実世界の(奇妙な)振る舞いに慣らされているからにすぎないのだと。それはまるで、「摩擦」という現象が存在するなどとは、この世に住んでみなければ想像もできないだろうけど、住んでいれば普通に体感できる(たとえばひもを結ぶ)ことと同じなのだと。
現に電気量は、電子一個の持つ電荷の何個分に相当するかで決まるし、時間だってそんな感じに違いない。この世の中は、そんなふうに出来ている。
が、しかし、それでこのパラドクスの解明になるのだろうか?
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まあ、若かったんですね。相手が仕掛けた幻に惑わされ、夢中になって振りほどこうとしていたのです。結局は、結論は出ませんでした。
出ようが出まいが、時間だけは過ぎてゆきます。
あるとき、ふと気づくのです。
ふたつの命題は、互いに関係がないことに。
最初の、アキレスが亀との距離を縮めていく話は、アキレスが亀に追いつくまでの、無数にあるイベントのひとつを述べているに過ぎないんですね。
「アキレスが、アキレスと亀との距離の10パーセントの地点に到達しても、亀はその時間に少し進む」
「アキレスが、アキレスと亀との距離の50パーセントの地点に到達しても、亀はその時間に少し進む」
「アキレスが、アキレスと亀との距離の90パーセントの地点に到達しても、亀はその時間に少し進む」
あたりまえのことばかりです。
ところが、この距離の割合を「100パーセント」と差し替えると、印象が変ってきます。
「亀がいた場所に到達する」と書かれると、まるでそれが(それが唯一の)、アキレスが亀を追い越そうとする意志をもった動作であり、かつそれは成就しなかった(追いつけなかった)、というストーリーのように読めてしまうのです。
むろん、これはストーリーではなく、必然です。あたりまえの現象です。「亀がいた場所に到達する」という動作を、なんど繰り返しても、両者の距離はゼロにはなりません。
だけど、そのことと、アキレスが亀に追いつけないという命題とは何の関係もないのです。まったく因果関係のない両者を、「ゆえに」で結び付けているのがおかしいのです。「人は馬より走るのが遅い。ゆえに人は馬に触ることはできない」なんて言っているようなものです。それをかつての自分ときたら……。
もうこの問題は、自分の中では解決しています。
パラドクスよ、人と時間が作り出した幻よ、さらば。もう若くなんていられない。
Update:2016-04-07 Thu 21:45:47
極楽湯の男湯にいた三人の女の子がもたらした夢だと妻は言う
2016年3月5日(土)
なぜおとなが怒らない。なぜ大衆は黙るのか。ならば乃公自らが立とうではないか──。
それでもそれは、しょせん脳内で自分が作ったもの、とは言い切れない。自分の中であっても、自分自身もまた、受身の人なのだ。
★
市の体育館で、中学生・高校生たちを中心としたイベントが開催されるというので、自分は家内とこれに出かけ、舞台に向かって横に何列かに並べられたパイプ椅子に座り、演し物を待っていた。舞台と椅子の列までの間は広い床で隔てられている。
会場は熱気でむんむんしていたが、さいわい出入り口に近い後ろの席だったので、右後方に大きな壁の空きがあり、そこから空気が出入りするのがうれしかった。
さて、イベントのオープニングらしく、舞台ではない、目の前の床に、脇から少年少女たちが、いろいろな扮装で入場してきて、横一列に並びはじめた。目の前、十メートルもない距離である。
生徒たちは、制服を着た小数の他は、たいていは思い思いに装飾を凝らしたコスプレのようないでたちの者が多い。中には水着に近い恰好の少女までいて、入場のたびに観客席から軽いどよめきが起こる。それには、たとえだれかの策による演出とはいえ、己の目を楽しませてくれるこれらパフォーマーに対する賞賛が、いくらか含まれているのだ。
しかし、続けて入ってきた中学生とも高校生ともつかない、三人の少女たちを見て自分は目を剥いた。
なぜ、中学生か高校生かわからなかったのか。それは彼女たちが全身丸裸であったからである。胸元に垂れる髪も、からだの真ん中に萌えるはずの薄墨も、およそ隠しうるものが何もない。それなのに、まるで透明のコスプレをまとい、その衣装が気恥ずかしいのだ、といった風情を漂わせている。
まさに異様である。この異様さは、それまでの仮装のような異形とは隔絶されているはずだ。連続してはいない。なのに、周りの人びとの反応は、同じような驚き、同じ程度のどよめきに終始しているのだ。
こんなことが許されるのか。
彼女たちのこの恰好は、ある小さなサークルの中の支配者、すなわち教師や指導者による、思慮のない演出の結果によるものだと、自分は即断した。
自分は立ち上がってその場を離れ、この狂態の責任者──愚かな判断をした指導者を探そうとした。おろおろと、しかし確信を持って。
自分たちの座っている右うしろの仕切りの空きには、いつのまにかシャッターが下りていた。その脇にある内部屋を覗いたが、だれもいない。続けてその左側にある階段を駆け上がり、二階の控え室のドアを開けてみるも、もぬけの空だった。さらに舞台の袖の楽屋に足を踏み入れても人影は見えない。さっきまでいたはずの、いなければならない者たちが、ことごとく姿を消していやがる──。
この期に及んでも、観客のだれも加勢に加わろうとはしない。畢竟、この愚か者と大衆は、シルエットを異にしないのだ。哀れなるかな、彼女たちは、全裸であるにもかかわらず演出だとでも思わされている被害者なのだ。それをどうして大のおとなが見抜けないのか。
とうとう見つけた。
黒いジャージ姿の教師風情だ。観客の左側の席に、紛れていた。いやさ、紛れていやがった。
この男が首謀者に違いない。
自分は男の前に進み出ると、ことさらに声量を上げ、こんなことが許されるとでも思っているのか、わたしは君を告発する、と告げた。大衆どもに聞こえるように。そして自分の中に響き渡るように。
それには証拠が要る。彼女たちの証言がほしい。
うしろを振り返ると、妻の席の前に小机があり、葉書大のメモ用紙が一枚あることに気付いた。それを受け取ると、まずひとりめの少女に、名前と住所を書いてもらった。君が悪いんじゃない、君たちは被害者だ、君たちをこんな風にした犯罪者をこれから罰してもらうのだ、とつぶやきながら。
ひとりめの少女は、ていねいではあるが、ものすごく字がへたで、名前と住所の間の行間をぜんぜんとっていない。カタカナとアルファベットを交えた名前の次に行を変えて、居候をさせてもらっているらしい弁護士事務所の住所を続けて書いた。
その住所だけど、白塚? すぐ近くではないか。そうか君は三重県白塚市か……、と言いかけて、三重県津市白塚町と言い直す。
あとのふたりの分の書くスペースがなくなったので、彼女たちが持っているチラシの裏に書いてもらうことにした。ごめんね、一枚使わせてね、などと穏便に頼むその脇で、俺はわれながらやさしく話す人だなあと感心している。
ふたりはチラシの裏に、めいめいの名前と住所を書いている。そうこうしている間じゅうも、自分以外のおとな、行事に参集した人びとは、だれひとりとして声をあげない。おしなべて、邪魔もしないが手伝おうともしないのだ。
──それからこれ、見てください。
はじめの少女が一冊の古ぼけたノートを差し出してきた。それがまだ少女の手の中にあるうちに、これはおとなたちが収支をちょろまかしている実態を、彼女たちなりに書き綴ったものではないかとの予感が瞬間的に沸き立った。
──これを貸してほしい。
うなずく少女に、いつまで借りられるかと尋ねると、きょうの夕方までというので、少々鼻白む。夕方かい、まるで子どものメモ扱いだな、とちょっとつんのめったが、とりあえず借りることにした。全ページをコピーすれば間に合うとも思った。
しかしよくよく見ると、それは自分が大学生のころに使っていたコクヨの Campus のようでもあり、開くとほぼ全ページにわたっていい加減な殴り書きがしてあった。ノートの途中に空白の部分があり、その中の一ページに彼女たちがしたためた「情報」が書かれているようだ。
セロハンテープで補修してあるそのページを手で破り取り、夕方までには君のところに戻すからと約束してふところにしまった。
気がつくと、すでに彼女らは衣服を身につけ、椅子に腰を降ろしたまま、三割にも満たないであろう期待を含んだ視線で自分を見上げている。
自分は、しかと承った、かならず俺は実行するぞ、と心に誓いながら、ゆれる視線を目の前の黒い瞳に重ねた。
シャッターが開き、光と風が入ってきた。
Update:2016-03-05 Sat 15:41:53
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