三十七年の居眠り
2013年11月14日(木)
名前を呼ばれた気がしてまどろみから目覚めた。
通路の向かい側の扉に、おばはんの姿をとらえる。
呼んだのはこのひと?
足下のヒーターが暖かい。鈍行列車の中は、人がてんでばらばらで、みんなしおれている。
そのうちあることに気付いた。
ただのおばはんじゃない。中学生のときから想いを寄せていたHさんに似ている。Hさんかも。こうして扉の右側に立つ仕草が昔と瓜二つだ。いつも僕の後ろの風景を目で追っていたね。
僕も同じだったと言うかもしれないけど、あのとき僕は全身で、きみと僕の間の風景を見ていたんだ。
──……くん。
また名前を呼ばれた。
おばはんの視線は動かない。
返事をしたい。返事しなきゃ。
──ひ……。
何も出ない。またそうなのか。意気地なしの無声音。あの日と同じ。ただのひとことも。またそうなのか。
胸を焼くような猛烈な後悔がよみがえる。もうあの日ではない。今度こそ絶対に。絶対に。
青白く遠い声がほとばしる。
次の瞬間おばはんは消え、僕は見て見ぬふりする乗客に囲まれていた。
Update:2013-11-15 Fri 13:58:55
チーズを入れるひと
2013年6月20日(木)
「みなさんは味噌汁に何を入れますか」
四十年前、小学五年の家庭科。先生の質問は穏やかだった。
ネギだ豆腐だとやかましい中で、先生はカツカツと黒板に書き出していったが、僕がマーガリンと言ったところでチョークを止めて振り返った。
マーガリンを入れるの? 本当に?
教師のあきれ顔に呼応して周囲の嘲笑が始まる。
本当だ。父はいつもそうしていた。でも僕は咄嗟にこんなふうに言って誤魔化した。
チーズも入れるよ。
案の定、クラスのざわめきは勢いを増す。
でも僕は嘘を言っていた。そんなひとは知らない。味噌汁にチーズを入れるなんて。
クラスが笑った。
先生も笑った。
僕も笑った。
チーズを入れるひとのことを。
笑われて当然のひとのことを。
Update:2013-06-20 Thu 20:22:20
自殺の理由
2013年6月20日(木)
老舗の書肆が軒を連ねる学生の街──。
そういう風景を、田舎に生まれ育った自分は知らなかった。
自分は、はるばる都会に出てきた田舎者の蝿なのである。ある書店の売り場へと、人の流れとともに運ばれてきた。
新刊の平積みの上に止まり、たったいま目の前をかすめた腕の行き先を眺めている。
書架から抜き出そうとして、若者の白く巨大な人差し指が伸ばされていた。
本は黄色味を帯びたベージュ色の装丁で、『自殺の理由』との表題があった。
手に取った若者はハードカバーの表紙を返し、目次を見ようとしている。
自分は目をつぶって、人間だったときのことを思い返していた。
『海亀のスープ』と名付けられた有名な問題がある。
古かろうが既出だろうが、わたしには重大である。
この問題文は、こう締めくくる。
──どうして船乗りは自殺をしてしまったのだろうか?
解答はさておくとして、わたしが注目するのは、自殺をした理由を問われて、答を出そうとする解答者の姿勢である。
わたしは問題を出した友人に逆に聞き返した。ふたりとも真面目な青年だった。
──いったいみんなが「ああそれじゃ自殺しても無理ないね」と思えるような、そんな理由がこの世にあるのか。あると思う方がおかしいんじゃないか。
助手席の友人は、面倒くさそうに、あるとしろ、と言ってまた黙り込んだ。
いっぽう文学においては、偉そうに言うが、この態度(納得のできる自殺のように「死」を文脈に置くやり方)は命取りになるのではないだろうか。
あくまでも死は異物であり、厄介者であり、面倒くさくて、とうてい受け入れられないものである。
自殺はそれでも起こる。
理由において80点をもらったから生じたのではない。
合格点などない。
わたしは、なかなか解答にたどり着けなかったが、たとえどんな正解を聞くにしろ、こう言い返してやろうと思っていた。
──そんなことで自殺なんかするかよ。
でもだめだった。
わたしは正解を出してしまった。
ああこれが正解なんだと認識しながら。
それなら船乗りを自殺に追いやったのは、自分かもしれないと思いながら。
……。
いくらかページを繰っていた指の持ち主は、短く嘆息して、本を元の棚にはじき返した。
何かつぶやいていたけれど、蝿の自分には聞き取れなかった。
Update:2013-06-20 Thu 20:21:32
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