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違憲状態との判決がこう連発されると、裁判官の内心もこのままでは陳腐な下級審から一生抜け出すことができぬと揺れ動くのは当然で、ヨーグルトのごとく液体や固形、あるいはゲル状にと分化が誘発され、而して判決文の中に「オニ違憲状態」とか「違憲状態第三ステージ」の惹句が現れるのは必定、状態。
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メンサを取り上げた面白半分のテレビ報道。標準偏差24を採用する民間テレビ的誇張仕様に、また呼んでほしい一心でか、だれも口を挟まない。メンサはIQ148の天才集団だなどと噴飯もの。ものを知る人からせいぜい、目尻と鼻の間で笑われるだけ。 https://www.youtube.com/watch?v=oGjJ3wlPcnA
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芸名が「クン」や「閣下」で終わるなら、敬称を付けて呼んだりしない。それを利用すれば、相手に意図したとおりの呼ばせ方ができる。○○教ならば宗教法人のひとつに過ぎないが、氏神には「教」は付かない。いずれ鎮守、護国、国体護持と連なり、個々人の都合を許さない、国民的解釈の色を帯びてくる。
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だまされる側は、何をやってもだまされる。だまされて万歳三唱、だまされて軍国精神、だまされて君が代唱和、だまされて戦地へ送られ、だまされて最前線。戦死体を跨いで帰還した士官は戦後、ひげを落として皺を増やし、めでたく平和論者へ。いまも構造は同じ。だまされて怒り、だまされて諦めている。
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国民総背番号に一億総活躍。かつては一億総懺悔、進め一億火の玉だ、撃ちてし止まむ。勝利なき弭兵なし。畢竟我々は勝つのであります蓋し勝つまで止めないからそれは当然であります。「○○であります」は長州の方言。「ざます」は薩長の女性が使った山の手言葉。明治カルト以来、この国を支配する層。
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先月末に亡くなった水木しげるさんは、戦争で左手を失ったが、治りかけた傷跡から赤ん坊の匂いがしたという。絶望ともとれる断面から立ち昇るにおいをそのように嗅いだのは、ご自身の強い生命力によるものだろう。こんな台詞、取材なしに脚本に落とせるとはとても思えない。体験者をまたひとり失った。
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土曜日の朝っぱらからゲーム三昧の息子に、そんなもん止めてこれをやらまいか、と勧めたのがノルウェーのIQテスト。ノルウェー語も英語も必要ない。本当は十三歳なのに十八歳と偽ってテスト開始。結果、123。ちょと焦る。Mensa Norge http://www.mensa.no/iq/hjemmetest/
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ゆるキャラが受けるわけ。(「中の人」という真相に目をつぶるという)うそを共有することからくる快感。これは、時代劇の悪代官が大黒屋から賄賂を受け取るシーンで、部屋でふたりきりに違いないのに、おたがいに小判を饅頭だなどと偽る、あの無意味な会話に通じる。洒落のわかる人ということらしい。
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マイナンバーなどというふざけた名前に変えられた国民総背番号が、うちにもやってきた。絶対に受け取らんと言っていたのに、留守の間に家内が受け取っていた。だってわたしの職場でいるもん、などと平然としておる。次に来るのは赤紙だぞ、それでも君は受け取るのか、と言おうとして口をつぐんでいる。
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空間が三次元なら、面は二次元、線なら一次元といえる。むかし読んだ中に、一次元空間の説明として「ここでは長さしか意味がありません。ここの住民の美人コンテストでは身長だけが審査の対象です」というのがあって笑った。ある海洋生物の図鑑の記述で「人間には関係ありません」というのも笑わせる。
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「消費税増税」と一回言うたびに「軽減税率」と十回言うから、「軽減税率」の勝ち。数で勝つことが勝ち。テレビは動く事象の先端ばかり追うことで、全体の姿を把握しづらくしている。「軽減税率の範囲拡大で折衝中」? 泥棒が、寄付すること高言しているようにしか聞こえない。また盗めばいいからと。
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この国の法とは、つまるところ、大法廷の十五名の裁判官の頭の中にある則のことであって、いと高みに立つ彼らは、お役柄お立場上、もはや竹林の七賢というわけにもいかず、船頭多くしてかの山に登り、「違憲状態」とのつましい小声では、すなわち有象無象なるべしとの誹りもまた、しかたのないところ。
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いまごろだけど、詩人で小説家の三木卓さんを好きになりかけている。この人が語る「生」と「死」を読んでみたい。とりあえず『胡桃』から始めた。
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「もっと明るい話、しましょうよ」って閑話休題のように使われる。自分について言えば、明るい話をしているときは、たいてい何も考えていない。思考が止まっているので、たいてい妥協してしまう。人を指して国民と呼ぶ人たちは、その国民が明るい話ばかりをし続けていてほしいと願っているに違いない。
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人どうし、がっかりすることは避けたいと思う。がっかりを想像すると胸が締め付けられる。にも関わらず自分で捏ち上げてでも、そんながっかりを疑似体験しようとしている。決して楽しんでいるのではなく、がっかりの上限を想像して、せめて当事者の失望がその範囲内であることを願っているのだと思う。
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ある過去から前はいつも自分はいなかったし、ある未来からはどの先にも自分はいない。自分がいないことが普通ではあるが、自分はその普通に確かに切れ目を入れてしまった。自分がいないという普通が、自分によって切断された。普通が終わることを生と呼び、ふたたび普通が始まることは死と呼ばれる。