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★ホテルでのカラオケ発表会に百人余の仲間たちと参加することになったのだが、スーツの下半分、ズボンを忘れてきたことに気づいた。歌うときだけ仲間に借りようと思ったが、その後のパーティーでは返さなければならない。どうしよう。順番が迫ってくる。近くで調達しようにも、財布には千円しかない。
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★わたしは小説家を目指している道すがら、何かが地面に落ちているのを見つけた。拾い上げてみるに、虫ではないし植物でもない。ひとりで生きるものではない。だが無機物でもなかった。それは哲学だと名乗った。小説家と政治家は似ている。哲学に取り付かれると、四年もすれば同じ職業ではいられない。
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してみると、記憶の内にあるあの光景は何なのか──。蜿蜒と登った侘しい参道。赤、緑、青、黄などのけばけばしくもうち枯れた装飾が、レプリカではない本物の星霜を感じさせる本堂と、それを取り囲む回廊。石段を上りに上り、さらに上ると小さな空き地があった。あの場所は、いったいどこにあるのだ。
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奈良県の初瀬にある長谷寺に家族で出かけた。真言宗の古刹で十六年前にも訪れたはずだが、どうもおかしい。家内の記憶にある回廊には横壁がないし蓮池も見当たらない。時間がたつうちにいろいろな記憶を組み合わせて別の風景を作り上げていたようだ。
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大衆は批判されない。それは国内の最大消費地であるから。顔が出ていれば「国民は馬鹿ではありませんよ」とか「有権者は絶妙な判断を下しましたねえ」とか、おもねる発言ばかり嘯く。大衆の意見とは、テレビが例示する輿論のサブセットに過ぎない。常に勝ち馬に賭けているのだから、当るのは想定通り。
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仕事をしている時間の大半は、文章を書くことに費やされている。スクリプトを書くとき、文字列にはたいてい日本語を使う。畢竟、ウェブサイトの、その独自性は、言語を駆使してしか表現できないのではないかと感じる。画像自体は伝達する力が弱く、キャプションや文字のないものは置き場所に難儀する。
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王そのものが反社会的存在なのだろう。はじめに自分が持ち、他人が持つことを禁ず。その法源として当然に「所有」に求める。暴力の別名である。「会議に遅刻するからってあんな非常識なことをするなんて」と笑い怒る。王を決める会議ではないから笑っていられるのだ。「それなら話は別」がてんこ盛り。
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王の濫觴または超法規的行為。大事な会議に遅刻してしまうからと、電車の窓を開け線路を歩いた人がいた。百人中九十九人が「自分ならしない」と声を合わせる。「特別の事情があれば……」と付け加えるころには、周りは「する」人だらけ。そこに王はいない。反社会的と一刀両断して満ち足りる愚か。
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「件」の作者さんは、三重県立図書館で「内田百閒」と検索してもしらんぷりするくせに、「内田百間」ならたちまち百件以上も顔を出すおちゃめなおじいさんです──。などと書いていたが、知らぬ間に同図書館でもOKだった。ただ、リストに出てくる文字は「百間」のまま。戦前は「百間」なんだそうだ。
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青空の中の雲がいい。青と白は他の色を呼び戻す。それ半世紀以上生きて、新しい音楽ではもう自分の世界にトリップできない。飲まないのに酔っているような、あの心地になれない。古い曲でも、聞きすぎると今とが交じり合って酔いが消える。雲を見た。四十五度の仰角で見上げる、荒れに荒れた雲がいい。
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ツイッター社が、文字数制限をいまの百四十字から一万字に緩める腹積もりらしい。文字数制限ちょうどに合わせて文章を作る練習をしている自分としてはいささか困る。大きすぎる自由は不自由を感じさせる。しかし自由が大きすぎると感じる自分自身の方が問題なのであって、制限の後退はつねに好ましい。
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いまの北朝鮮と近代日本との類似 (1)全権を掌握する超越的な人物が存在する(2)(1)の人物の地位は世襲により継承される(3)(1)の人物への忠誠が教育や監視によって維持される ただし現代日本では、憲法により(1)は認められないので存在しない。ゆえに(2)も(3)もない。
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集団美人の個別ブサ論は、ライターの泉麻人さんだったと思うが、本の中で書いていた。若い女性が集団でいると、どの人も美人に見えるが、ひとりひとりの顔をカード化して個別に眺めてみると、そうでもないことに気づく、という内容だった。一覧性の陥穽とも言えるが、戦略的に利用した例もあるだろう。
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地図の見せ方は理知的ではない。しかし、島国と大陸との違いを紙の大きさ(眼球の動きの大きさ)で知ることができる。改頁やスクロールなどに入れられた情報は入れ子にもできるので、情報の全体像を知ることがさらに困難になる。われわれ人類は、動物でもあるわけで、共に持つ理解力は強く捨てがたい。
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情報を目で閲するのにもっとも適した表示の方法は、地図の見せ方、つまり一覧性を最大にすることではないかと思う。改頁やスクロールなどは次善策。国会前に集まった人の数を一万と伝えるよりも、その数の人を写真で示した方が、どのような事態だったのかを直感でつかみやすい。つまりは一進法の勝ち。
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ネット上には、東大生の平均IQは120とある。標準偏差15を用いれば偏差値は63.3。出現率9.12パーセント。これには、東大生ならもっと希だ、11人にひとりのはずがない、と叫ぶ人が必ず出てくる。学ぶ力や記憶力、推理力など、知的な能力同士は互いにトレースするものと思い込んでいる。
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つまりはそういうことですね。日本でいま、メンサの入会テストが人気のようで、とくに関東ではすぐに満席になるようだ。メディアを通じて知名度があがったせいでもあるだろうけど、大甘の結果を返すIQテストもどきがネットに多く転がっているのも一因だと思う。而して桶屋ならぬメンサが儲かる道理。
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お縫い子テルミー読了。主人公テルミーの、シナイちゃんとの関係に素直になれないひっかかりを、素直に読めずに、つまりは肝の部分を飲み込まずに捨てている。再読でこのありさま。齢五十台の読書は二十台のそれとは別物という三田氏の言葉が胸に刺さる。それも嘘。刺さらない。テルミーの針が恋しい。
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しつこくお座敷小唄。しかし逆に肝の部分で、「雪に変わりが あるじゃなし」が正しいのだとする意見にもうなづけない。何だかいらやしい。主旨はそうであっても、気象や人権や法令の知見を駆使した結果にも似た、女であることにはかわりはない旨、理路整然と主張する歌詞ではないと思う。文芸だから。
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「お座敷小唄」ではまず、「雪に変わりがある」とする解釈は何がどうあっても絶対に駄目です。「とけて流れりゃ皆同じ」という妖艶な結びに逆接では綺麗につながりません。窮余、歌詞に手を入れられないのなら「ないじゃなし」を「ないで為し」と肯定ととる。花街にそういう言い方はないのでしょうか。