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何かの本を読んでいたら、悪文の例として、「燕が低く飛んでいた。それで傘を持って出かけた。」と出ていた。「燕が低く飛んでいた。雨になるようだ。それで傘を持って出かけた。」のように、「雨」を入れなければならないという。雨が降るから傘を差す。わかりやすいが、失うものも大きい。
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絵画や音楽は、そのものに価値がある。存在意義も根拠も説明を要しない。自然界の模様や音にも通じ、ヒト以外の生物と意味を共有できるものすらある。しかし文字は違う。文字は読者と対になってはじめて意味をもつ。その意味で、文章は暗号だともいえる。文芸は人に選ばれる反面、人を選びもするのだ。
2016-9-6
新しく考えたロゴマークは、ILNEIGE(イルネージュ)を、アルファベットでもカタカナでも、最初の二文字をイメージしています。PNGで保存してグーグルの画像検索で調べたが、あまりあてにならない(下図)。Pinterestでも同様か。
2016-9-7
ILNEIGE(イルネージュ)の新しいロゴマークを考えてみた。https://ilneige.com/
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CMで「へーベルハウスて言わせたいんやろ」とつぶやくエヴァちゃんと、廃棄食品を取材の記者に「分かってるくせに」とつぶやくみのりのじいさん。おもしろいから台詞を入れ替えてやろう。「分かってるくせに」とつぶやくエヴァちゃんと、「ダイコーて言わせたいんやろ」とつぶやくみのりのじいさん。
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芸術の意義や目的は「感動」でしょう。文芸は、感動の主体(読者)に依存する割合が、ほかのどの芸術よりも大きいと思う。さらには、文芸は、それ単独は感動の手段にすぎず、完結などできない、あくまで読者とのセットでもって、はじめて芸術作品と呼べるのだとも思う。主体によって価値が変るのだと。
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世界最大の予算を費消する公共放送の、もっとも重要なポストに就いた人物がかつて、「政府が右と言っているものを左と言うわけにはいかない」由発言した。彼ひとりの狂気ではなく、その発言で孤立するはずはないと踏んだのも、まあそれもそうだと頷く大衆があらばこそ。民主主義はただあるだけで腐る。
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きょうは、はがきをありがとう。お仕事がうまくいきますようにと、心に祈りました。
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「多彩な活躍に期待」「潜在的な能力に驚きの声」「各社が技術の向上に鎬を削る」もしも、マスコミによるそのような賛辞の声がなかったなら、日本農耕社会の住人の目には、ドローンはもっと悪役に映るはず。ヘリコプターなら許せる。お上だから。でもドローンは、となりの家の洟垂れでも飛ばせるから。
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花沢健吾の漫画「ルサンチマン」新装版上・下を読了。雑誌連載は十二年も前から。知らなかった。同じ内容の漫画と私小説を読み比べることを考えた場合、文字だけで作られた作品の方に軍配が上る道理はないとさえ思えてくる。タクローや越後の顔かたち。十二年前に書かれた十一年後の世界がいとおしい。
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空気を読んで、うなづく自分を許せない。マスコミにより報道される非常識は、それをとがめる声の大きさに左右されがち。非常識の程度が、報道機関の判断に依存している。「ある意味では不経済」「そりゃもう国民の義務」「ありえない非国民ぶり」。ゆえに、あらゆる結束、あらゆる統一には参加しない。
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たいていのドラマの筋書きでは、「本当のことを言って相手を傷つける」よりも「嘘をついて相手を傷つけない」方に脚光を浴びせている。それは脚本のお約束。そうやって、嘘が美しく見える状況を、ことさらに作り出しているようだ。まさに主役級の扱いであり、罪業の中に埋もれた異物という感じはない。
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ほんとうに怖いもの。それはアペではなく、アペの次に来るもの。それはアポでも安保でもなく、「私たち」と名乗る大衆かもしれない。
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本来もっと控えめだった。自覚することもなく、加齢とともに進む自分の病。あんなに怖かった「他人」が、歳をとるにつれて怖くなくなっている。磨り減ってゆく謙虚さと釣り合うように。デニーズの会計で、アルバイトの女子高生に軽口をたたく。笑う口元に満足気のおっさん。そんなの自分じゃなかった。
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苦しくったってー足が痺れたってー お堂の中では正座なの 坊主がー唸るとー木魚が弾むわー 色即是空……だけど阿弥陀が出ちゃう浄土真宗だもん……東ー東ー本願寺ー。この腐れた替え歌は、27年前、嘉門達夫の深夜番組に、知人が私の名前を使って投稿したもの。訳のわからん記念品が送られてきた。
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愚問には、短い切り返しの方が似合う。Et alors ? は、「それがどうした」と訳するよりも(そういう意味だろうけど)、「で?」の方が言葉として磨かれている。「あなたには愛人がいるという情報ですが」「で?」日本では、お決まりの平身低頭パフォ。妻まで出てきてこんにちは。
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停止を求める非常ボタンと、停止をさせる非常ブレーキの違いなのか。列車の車掌は、非常ブレーキの操作を躊躇したと答えた。二十年前、あるスキー場で、目の前のリフトに乗っている子どもが、スキーを雪原に引っ掛けて落ちそうになっている姿を、通報もせずに見つめているだけだった、あのときの自分。
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Aさん(Tさん・Dさん)が書いた話で、枕元の家族に、19歳からあとの自分は死んでいるも同然で妻も子どもたちも本当は愛してはいない、と謝るシーンがあった。四十二年前の春、ある人と交わした言葉で、のちのすべてを失ってしまった。人生は一度きりだと誰が言った。死ななければ。夢の中にこそ。
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自分が見聞きして感動していることが他人でも同じなのかは、確かめようがない。はたして「おいしい、きれい」という言葉で状況を共有できているのか。しかし絵文字や「ボケて」の言葉は違う。こう表せばこう感じるだろうという思惑が、手に取るようにわかる。自分との一体感がある。我ボケる故に我有。
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ゼノンの『アキレスと亀』は、哲学十全みたいな読み物にいまだに出ている。結句、パラドクスに見せかけた偽物。アキレスが亀のいる位置まで進むことを、あたかも追い越そうとする意志がもたらす行為であるかように誤認させている。無関係なふたつの命題を「だから」という接続詞で連結するという誤り。