2016-11-7
昔、母の実家に灌漑用の単気筒エンジンがあった。親戚が集まる餅つきイベントには必ず登場し、冬休みに入ったばかりの子どもらを怯えさせていた。あのときの年寄りはみんな死んだし、あやつももう捨てられたと聞いた。写真はJA祭りに集められたエンジン。民芸品館などではなく、莚の上がよく似合う。
2016-11-4
星霜幾十年、旧るにつれ磨り減る奥歯を嘆いている暇はない。物心とともに得たはずの慎み深さは、いまや喪家の狗のごとくうち枯れ、その副作用として現れる外観は、たちまち傲慢と滑稽に堕する。謙虚を第一の徳目とすると言った。家内は鼻で笑うが、まずは謙虚に六十パーセント程度の慎みを目標とする。
2016-11-3
タイムカプセルをなぜ埋めるのか。それは未来に向けての密告だから。カプセル作りには、急激に変化する世の中で「未来の知恵でこの現在を否定してほしい」という気持ちがあるはず。開けた未来人が鼻で笑う姿を想像している。畢竟その真の意義は「開ける将来」にではなく「埋めるいま」にあるのだろう。
2016-11-2
高校時代に同級だったXは、いま東大教授。六時間目をさぼって駅に向かって駆けたふたりの背中には同じ西日が射していたのに、やはり大きな心が大きな仕事を成す。こちら上司ゼロ部下ゼロの自営厨。霜月の西風をまともに受ける一戸建ての、仕事場にしている京間の四畳半は、しかしながらきょうも熱い。
2016-11-2
心の内を表現するとき、小説や漫画では、「か」「かしら」「ぞ」「ぜ」のように、終助詞がよく使われる。しかしそれらは読者に投げる言葉だからそのように使われるのであって、実体としては存在しないと思っている。現実よりも言語化する(状況を言葉で解する)夢の中ではその虚構性がより鮮明になる。
2016-11-1
画像検索の途中でたまたま、ある小・中学校の卒業写真に出合った。全く別の場所の、しかし同じ時代の生徒たちだった。ぼんやり見ていると、知っている人たちのような気がしてくる。特に女子では、「この人いた!」とか「ああ、あの人ね」とか、ひとりひとりよく見れば、全然記憶にない生徒たちなのに。
2016-10-30
380ページもあったからもうひとこと。『トワイライト』は、視点が多数の登場人物の間で移動するオムニバス形式ともいえるが、全体を貫く──神と読者が共有する視点からすれば、悪者とは、すなわちケチャのはず。お手手つないだ大団円にも出ない。ならばこの人物に切り込み役をやらせてほしかった。
2016-10-29
重松清『トワイライト』読了。重松さんのを読むのは十年ぶり。もっと早くに読みたかった。胸が高鳴る。とてもいいけど感動したけど、やっぱり重松さん、逃げているんだと思う。これは作中の人物が何度も独白する台詞でもある。だれもが徹底した悪人にはならない。顔をしかめるような醜態が出てこない。
2016-10-13
夢の中で中学生に戻っていたが、校舎や状況は見知らぬものばかりだった。教室には好きな子がいたが、恰好をつけている間にいなくなった。帰宅しようと校舎を出しな、その子が右手の校庭にいた。勇気を出して小さく手首を振ると、相手がやはり小さく反応を返してくれたことが、この上なくうれしかった。
2016-10-7
PCとスマホのアクセス比率。超える超えると騒がれた去年は超えなかったが、静かになった今年、比率の逆転は静かに生じたのだろう。モバイルファーストは都民ファーストよりも先にあたりまえになった。PC用のレイアウトの左半分は捨てられることになったが、コンテンツ優先の方向は間違っていない。
2016-10-4
発信機をつけることでイルカの行動が変わるかも知れないし、人を撮影しようと光を当てれば小さくなった瞳孔が顔写真として残る。観測とはかように密やかさに欠けるものであるから、知っている人だけが歳をとるというのもあながち戯言とも言えまい。知らない人も歳をとるはずだいうのは憶測に過ぎない。
2016-9-28
尾鷲漁港の突堤で魚釣りをする人。伊勢湾西岸で生まれ育った者としては、砂浜のない海岸線というものは、奇異に映るが、それもまたよし。歴史は古く、縄文時代より栄えたらしい。山を背に海を見る。尾鷲が好きになってきた。