Twitter に書いたのと、ほぼ同じことが出ています。
わたしはこの夏、面倒を厭わないという考えをもった。面倒はいい匂いだ、と。それはほんの小さな事柄から始める。つま先で横にずらしていたものを、手で拾い上げる。手を使うことでより多く足の運動になる。心が肉を使う。自分がこの世に出たさいの借り物である以上、肉体は大切に使うべきだと知った。
ほかでも同様、キリスト教では信仰心は表に出すべきであると説いている。小狡いとも思うが、それが宗教の限界なのかもしれない。内心だけで食ってはいかれない。托鉢には成果という現物が期待される。では謙虚はどうだろうか。謙虚はこれ見よと表現すべき徳目なのか。ひとり密かに置くべきものなのか。
八月二十八日からこの方、八十六日ぶりに髭を剃った。口髭は半インチ、顎鬚は一寸ほども伸びていた。験を担いでいるわけではないが、夢に左右されている。自分から自身を韜晦するという意欲があったが、鏡を見る機会が増えたばかりか、同じように髭を伸ばしている人を見ては、その内心を想像している。
タピオカ澱粉加工品という名の、森永製菓のラムネ菓子ふうの丸いやつの百グラム入りを買って、水につけておいた。それを数分間煮立てて冷水で冷やすと、表面がしっかりしてきて透明感があり、直径も態度もでかくなってきた。これを南国の果汁の中に落とし、微糖炭酸水を注いで自家製タピオカドリンク。
梨木香歩『沼地のある森を抜けて』。じつは読了していない。お話が進むにつれて荒唐無稽の度が過ぎるように感じてしまい、いちばんおもしろくなるはずの終盤まで及ばず。非現実的な展開を、主人公と対象以外の作中の第三者が評価するふうには描いてほしくなかった。ファンタジーは期待していなかった。
アリストテレスの名言「人は繰り返し行うことの集大成である。だから優秀さとは、ただ一度の行為でなく、習慣なのだ」そんな邦訳にするからわかりにくくなる。「優秀さは、一度きりの行為の中にではなく、習慣の中にある」あるいは「その人の美徳を揚げるなら、その人の習慣のなかから選ぶべきである」
★猫のシロとクロを連れて名古屋見物から帰ると、前の晩、日向と文也君が泊っていったことを知った。ひとつの部屋に布団を使った跡がふたつ並べてあったが、ふたりの特別な関係は、ただの同居人のように、とくに感じなかった。日向の使った布団は、畳んであるほうだと思った。布団の匂いをかいでいた。
台風19号の影響で五十鈴川の状態はどうなったのか。伊勢市楠部町あたりでは、たいへんなことになっているらしい。驚くほどの現場の光景とは裏腹に、新聞やウェブには「増水」とか「氾濫危険水位に」などという表現が並ぶ。どういうわけか、ほかの地域のように「越流」や「氾濫」とは書かれていない。
★日向初美は、長椅子にすわる僕の太ももの脇で半ば横になり、仕事のことを教えてくれた。福祉関係か何かの集団なのか、700名の中の30名を担当していると。声は元気そうだった。夢の中でも好きだと告げられない。ましてうつせみでなぞ。
などと思っていたら、21日付の中日新聞朝刊6面で、JTの全面広告があり、「嫌いな人をほめてみよう」というコピーが掲載されていた。無茶筋だが、パクられ感すらある。どんな人でも、その内面から発する声は印象とは似て非なる。嫌いな人とは、己が作り出した外装であり、自己ファッショなのだと。
面倒はいい匂い──。Tよ、Nよ。面倒は臭くなどないのだ。自分は去年からこちら、(1)謙虚であること(2)面倒くさがらないこと(3)嫌いな人の味方をすること、を自分への課題とした。(3)は心中での遊びだとしても、とてもつらい。国選弁護人みたいに仕事だと割り切れれば楽だと思えるけど。
ラフマニノフ『ヴォカリーズ』を聴いて思った。恋は不条理で理解不能なものであると。そして、自分は知っている。日向初美に恋をしている。たとえ夢の中だけで動く少女であれ、いまもどこかで生きている六十代の女性であれ。過去は考えなくていい。人間は、いま想いをめぐらす未来にしか生きられない。
松浦寿輝『花腐し』を六年ぶりに再読。前半に収録の『ひたひたと』が好きだった。いま読むと、継ぎ目の改まりが少々強引で鼻につく。混濁する記憶の話は、梨木香歩さんの『f植物園の巣穴』がいい。昔の家の記憶の中でうなる古道具。モノと人と経験を飲み込んで習合したような、アマルガムの気味悪さ。
精神を鍛えたい。苦痛の中で精神的にそそり立ちたい。そのために何をするかは、じつにかんたんなことで、いちばん嫌いなひと、とくに芸能人、有名人、気持ち悪くて遠ざけたいと思っている人の気持ちを想像して代弁してみる。
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