※本文と写真は無関係です。
音のするほうを見ると、エナジードリンクの空き缶が、風の思うままに従って、あちこちへと転がっているのでした。誰かが道端に置いたか捨てたかした空き缶が、風に拾われて転がり始めたのでしょう。
道路というものは普通、真ん中が付近が小高くなっているので、ほどなくして道路の脇に収束しそうなものですが、この缶めは、すべて風のせいにでもするつもりなのか、漫画チックに甲高い音をたてながら、無人の交差点で傍若無人の振る舞いに終始しているのでした。誰か拾わないのか? じゃあ自分はそうしないのか。それはしない。思い切ってドアを開けて交差点に立ち、缶に手を伸べた矢先に逃げられてあちこちさまよい、で、結局つかまえられず、恥ずかしい思いをするだけで終わるという図が、瞬間的に生まれてくる。
しばらく音がやんでいる。いまやつはどこにいるのか? 自分の前か? 反対車線か? と思うまもなく再び三たび、カッカッカ、カカカカッカッカ……とどこからともなく音が始まる。動きも静止もランダムウォークであって、まったく予想が立たない。きょうこいつの描いた軌跡に何か意味があるのか。いや、何もない。昔の漢文の授業みたいだ。「どうして意味があるだろうか(いや、ない)」という反語文の訳には、「いや、ない」を付けないと不正解にされた。また静かになった。どこだ、どこにいる。これを最初に踏むやつが、信号を待っているこの中から出る。そいつは負け組となるのだろうか。宝くじに当ったことがきっかけで、全財産を失う人。それはきっと他人。自分じゃない。何もしない者には、何も訪れない。
信号が青に変わった。世の人といってもそれは、区の住民の半分、今回は奇数組の世帯代表者の総数と彼・彼女らの平均出席率を乗じたものなので、せいぜい百名ほどに過ぎないのだが。
もとより、勤労奉仕の本性は利他を旨としない。己のためにあると心得るべきである。自分のためにさせていただくという謙虚が必要である。いわんや、誰それの目を気にしながらの行動は、軽挙妄動にも劣る愚行である。自分はたしか八組なので、今回の奇数組の参加とは無関係なはずなのだが、家内には、ボランティアとは要請されたからではなく出たいと思う己のために出るのだ、という理屈を捏ねて、意気揚々と七百メール東へ行ったところの海岸を目差した。偶数組からは、自分のほかには、年配者がひとり来ていた。区長の側からは、他の組からの応援ということで、まったく同じように接してもらった。
自分には、先に述べた、不埒な自己満足という目的があるので、組が違うのにと、いささか奇異を含んだ視線にも恬然と接し、「いやあ、強制じゃないからなおさらですよ」、などと気楽にうそぶいている。その一方で、体内には、分割された組の閾に拘泥する住民たちの行動を見下している目がたしかに存在するのだ。