『ミステリーの書き方』という大部の文庫が、幻冬舎文庫から2010年に出ていて、それを自分は古書店で108円(税込)で買い求めました。
本の中で、作家の小池真理子さんが「比喩は劇薬」などという(暗喩を含む)自己言及的な見出しで、実例を交えつつ、比喩について14ページばかりお書きになっていました。
最後の「引用例(D)『青山娼館』/角川文庫p.294」では、小池さんのご自身の文章を揚げて、好例として引用されているらしいのですが、一見してあまりにひどく乱れた文章に思われたので、推敲する気持ちを抑えることができませんでした。で、じっさい推敲してみました。
この箇所を選んだのは、小池さん本人であってわたしではありません。したがって、全文引用させてもらうことにします。改行はなりゆきで、ルビは省略してあります。
【小池バージョン】
さあっ、と乾いた風のような音がしたと思ったら、その時、窓の外で雨が降り出した。雨は庭の木立の葉をたたき、草を濡らし、湿った土の香を立ち上らせた。
わたしたちは、雨が作る水の檻の中に閉じ込められたまま、深くつながり続けた。
一回腰を動かすたびに、わたしは思った。「生きている」と。「生きていたい」と。
生きている、生きていたい、生きている、生きて生きたい……。呼吸が烈しくなり、喘ぎ声が喉の奥からもれてくる。肘掛け椅子の脚がぎしぎしと鳴る。
わたしたちは噛みつきあうようなキスをする。性と性、生と生がぶつかり合う。
水の音をぬうようにして、遠い雷鳴が聞こえている。
【自分バージョン】
風の音がした、と思ったら次に雨が来た。
木立の葉をゆらせ、地面に叩きつけると、入れ替わるように土の香りを得る。
わたしたちは、かまわず繋がり続けた。風の嘯きも水の檻も、わたしたちを止めることはできない。
(中略)
椅子が鳴っている。呼吸がそれに続く。音とにおいの中で、わたしたちは生きていた。いまさらながらの深いキス。だがそれは、性と性が結びつき、生と生がぶつかり合うための必然なのだ。
雨の音の中に、遠く雷鳴が混じる。
のけぞった喉で、「雷」と、つぶやいてみた。
ラストシーンらしいです。肝心な大団円なのでしょう。
「さあっ」とは何でしょうか。雨が降るのに「窓の外」は要りますか。「雨が作る水の檻」では、暗喩がぐらつく。ここでは「水の檻」の一手でしょう。「ぎしぎし」は先の「さあっ」と何か連絡しているのでしょうか。
そもそも、この人は、「吹く風」「叩く雨」「立ち上るにおい」を性行為と並んで走らせ、それを暗示させるつもりで書いたのではないのですか。ならば遠雷は、大きな意味をもつでしょう。
わたしは読書家ではありませんし、聞き手でもありません。末端のことばのちいさな消費者です。でも、あまりにひどいものは、生産者側でつまみとってほしいと願っています。
兼好法師が書いた徒然草の中に、「神無月のころ」というのがありました。高校一年の古文の時間、森田先生に暗記させられました。以下原文です。
神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入ることはべりしに、はるかなる苔の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋のしづくならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、周りをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばとおぼえしか。
作者は、こんな世捨て人のような生活でも人は生きられるものだなあと感慨深げなところへさして、目に入った大きなみかんの木に厳重に囲いがしてあるのを捉まえて、人の業に興がさめたと言っているようです。
いま、この文章を読み返して異様に思うのは、兼好が「こんな木なぞ、なければいいのに」と書く結末の部分です。
「こんな厳重な囲いなぞ、なければいいのに」ではなくて、「こんな木なぞ、なければいいのに」という感想です。
他人の住んでいる場所に勝手に押し入って、その生活ぶりを見下すに飽き足らず、農作物の盗難防止のくふうを目にするや、そんなことをするぐらいならいっそなくなってしまえなど、手前勝手が過ぎるのではないでしょうか。
世捨て人は世捨て人らしく、田舎者は田舎者らしく振舞えと。相容れない要素があれば、善処すべきだ、ではなく、処分すべきだと主張しているのです。人の善処に期待していない。
したがって、これはたんなる随筆、紀行文、などではなく、もはや、兼好の生きた14世紀という時代への(翻訳すれば、21世紀のわたしたちがそう考えるような)批判ではないのかと考えます。
イスラムとユダヤが喧嘩している。「仲良くすればいいのに」ではなくて、「ふたりともいなくなってしまえばいいのに」
人間は戦争ばかりしている。「戦いをやめればいいのに」ではなく、「いっそ滅んでしまえばいいのに」。
厭世、狷介のにおいがします。
画像の破壊者というより、「すでに存在している価値」の破壊者、「ボケて」( http://bokete.jp/ )
高レベルの住人には、とうてい太刀打ちできず、困っていましたが、そこは努力の、ボケて閲覧一万遍。数には報われるものです。
きょう見つけた、あるお題のだれかの答え:
「近所のおばあちゃん全員鍛え上げる」
このフレーズをにらんでいるうち、自分には何かが言える気がしました。
けさ思いついた、このお題の自分の答え:
「おばあちゃんは、前の日に助けておく」
この新しい解にたどりついた自分は、やっとやっとボケての国への査証を得たような気がしました。
うつむいて、ぼくに尋ねるものがいる
──こんな寂しいところにどうして道がついてるの
そういって駆け出した子の背中に向かって、ぼくはつぶやく
──さあ、どうしてだろうね
かけがえのないものと、かけがえのなかったものが
目の前で重なる
許されないひとことを呑み込んで、ぼくは深呼吸する
金は錬金術では得られない。鉱脈の中から探し出すものです。
入力された文章を、単語ごとに区切って適当に組みなおした、でたらめの文章を出力します。
変換や出力は、ネットを介さず、お手元のコンピュータの中だけで完結しますので安全です。
慊りない文章に倦み疲れた方が、シュールな言葉に出会えるかもしれません、ごくまれになら。
とりあえず、堅そうな文章を下のテキストボックスに入れて、出力ボタンを押してみてください。
※出力されるのは、単語ごとの区切りにより分かち書きをしたものを、ランダムに組みなおしたものです。
※分かち書きを生成する JavaScript は、工藤拓氏の TinySegmenter からお借りしました。
※出力する語の数は、とりあえず1万語を限度としています。
ここでは心胆寒からしむる異才・鬼才の存在が、うようよしています。俊作と、そうでないものの差はとても大きいのですが、それはそれ、アフィリエイトでスポンサーが付いている以上、多数の人を寄せるためには、いたしかたありません。「読むより書く」、「見るより出す」が、いまの世相です。
この bokete.jp では、「ボケて」のひとことで、画像と言葉の通常の関係性(二者択一:いわゆるオルタナティブ、あるいは、キャプション:説明のために付加)を破壊して、新しい両者の関係を築くための契機としているのです。たとえば、下の画像を見てください(一般に画像の引用はNGですので、サムネイルにページのリンクを貼ります。その先の事情はもう知りません)。
「ママに変装したのび太とそれを見て似ていると笑うドラえもん」という構図なのでしょう。しかし、この場にドラえもんは存在していない、という想定も可能なのです。つまり「ママ、(ドラえもんて)こんなんだよね?」 「のび太くんww 似てる……」 とも取れるわけで、これは言葉が、それまで絵の中にあったドラえもんを消滅させてしまう例でもあるのです(見た瞬間はそう解釈していました)。
台風の接近や進路の状況で被害に違いが出ることはわかります。しかし、上陸するか否かで、何が異なるのだろうか。これは自分の中では、「長年なんとなく溜まり、次第に発酵しつつある疑問」であって、自分で甕のふたをあけて、つまり19号を機に、自分で問題として練り上げているとも言えるのですが、さて誰に聞いても、みな知らんと言う。友達もいないから聞くわけにもいかない。
同じように考える人はやはりいて、ネットで検索すると、「はてな」やら「なんたら質問箱」なんかで、この質問と回答のいくつかが出て来ます。ところが、あきらかに、前に出た回答の主旨に引っ張られたような回答もある。
──台風の進路の東側と西側では、被害に大きな差が出ます。どこに上陸するのかは大事なんです。「台風の上陸」とは、誰もが口にする一方で、決して中身を問うてはならぬ、一種のタブーみたいなものなのでしょう。
国民的合言葉なのでしょう。
※うろ覚えのくせに、再検索もめんどくさいので、多少の脚色は放置してあります。
完全に主役を食ってしまいました。言葉の限界を突き破り、低い天井を押し上げてしまいました。
これを超えるものは、そう出そうにありません。
異常だと投げ打つのはかんたんです。別に脚本にしなくていいことですから。
でも、実体ならばこそ紛れ込んだこの現象を見て、虚構の中で書けば逆に不自然だなどと、あくびをする物書きがいれば、その人はきっと藤四郎。