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件の五輪エンブレムが使用中止の方向と伝えられた。そりゃ人間は弱いもので、誘惑には駆られるし、隠れたくもなる。旗色が悪くなれば手のひらを反す態度の人も出る。むしろ際立ったのは、ベルギーのデザイナー側からの使用中止要請を「炎上ビジネス」と揶揄した八代英輝さんという弁護士さんでした。
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『第三紀層の魚』を涙ながらに読んだという人がいるのを知り、腰が抜けた。こりゃいかんと『共喰い』を引っ張り出し真ん中で割って、どこだどこだ、泣けるのはどこだと、指でなぞって読み直している。作家の三田誠広氏曰く「小説は、歳をとってから読んだのでは得られないものがあります」。泣きたい。
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国会前に集まった人たちは主役だ。観客ではない。(註)橋下徹大阪市長「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうち、ほぼ数字にならないくらいだろう。サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」(中日新聞 2015年8月31日)後日の自分のために、いらん註がいる。
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昔、はやり歌の歌詞の中で、男からの電話に「もういちど生まれかわってめぐり逢いたいね」と独り言つ場面があった。これに噛み付いた坊さんがいた。──じつに憂うべき世相である。親からもらったいまある生を大切にすべきだ。生まれ変わるという考えなど笑止千万である。字面どおりに解釈する律義者?
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降るとまで 人には見せて 花曇り 井月 書いて書かず、書かずに書く。桜についてひと言も触れていない(「花曇り」とは曇天のこと)のに、厚く垂れ下がった雲の下で、熱に浮かされたように匂い立つ、桜並木の鮮やかな色が浮かぶ。雨模様もそれを思案する人も、俳人の目にはとまらなかったようだ。
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「人のふり見て我がふり直せ」という言葉は、仏教的でいいなあと思う。いまある我が身は、己の範囲しか及ばない。己の体内でしか生成できない『謙虚さ』にも通じる。精錬された個人主義か。出だしを『人のふり』とはじめながら、『人のふり』についてまったく触れない。書いて書かず、書かずに書く。
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もしや万一、誰かがこのキーボーを使って『セイキノハッケン』と打ったとき、『世紀の発見』ではなく、『性器の発見』と学習変換されるのを見られたら、恥ずかしい。そこで『性器』と書く必要があるときは、『性質』に続けて『器』と書き、両者の間の『質』を消すようにしているめんどくさいやつ、俺。
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ネットで知り合った、Aさん(のちのTさん、いまDさん/多分)が、むかし『古墳公園』という短いのを書いていて、これも記憶にかかわることがテーマだったけど、おもしろかった。途中で出てくる女の子が、そりゃもう憎らしいったら。話の中に入ってその毒づく口をねじかいてやろかしらんと思ったり。
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磯﨑憲一郎『世紀の発見』読了。牽強付会という語がなんども頭をかすめる。すべて母の仕業という考えは、3年前に自分も何かで書いたが、この本の方がもう3年古かった。記憶するきっかけは、それも記憶のうちなのだが、平然と前後する。古墳公園があったから何なのだ。それが何かやらかしていたのか。
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サナトリウムをWikiで引くと『思い出のマーニー』に出ているとある。そういや、そんな映画があったなあと、近所でDVDを借りる。半世紀前の小説が原作になっていると知って図書館で借りて読み、ああ、そういやこれ、大昔読んだわと独り合点しているが、じつは『ナンシーの活躍』と混同している。
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『共食い』に収録されている『第三紀層の魚』。感想文を書こうとすると、粗筋の紹介になってしまう。主人公の少年の楽しみと憧れであるチヌ釣りと、父、祖父と、なか二代が不幸となり、三親等離れた直系尊属である曽祖父の、三種類しかない過去から得られるものが絡めてある模様。つまりは石炭のこと?
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「事故の直後は運転者はあらゆる事故原因の因子を背負い込んでいるものとデフォルトで推定され、現場に留まり警察の調べを受けることで、その因子を否定していく」という方法に改めなければ、轢き逃げはなくならない。そうなれば、運転者が素面なら、酒気が抜けるとされる時間内に検査を求めるだろう。
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飲んでいたことが立証されずに轢き逃げが酒酔い運転より刑が軽くなるのなら、そりゃ、みな逃げる。事故を起こしてから拘束されるまでの時間に恢復できるあらゆる因子のうち、事故に貢献しうるもの(居眠り、飲酒、シンナーなど)は、すべて「あったものと看做す」(検察の証明が不要)とすべきだろう。
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田中慎弥『共食い』読了。共食いというより親子丼の二人前。父のみならず遠馬の行動に違和感をもつ。彼女の首を絞めようとしたり、父親が常連客である女をツケで買い、揚げ銭を父親に払わそうとしたり。鰻や赤犬なんかどうでもいいの。なんで殴るの? 主人公である遠馬に添えないし、馬にも乗らない。
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サナトリウムという言葉からくる印象がぼんやりとあった。真夏のかの場所では、説明のつかないいろんな小さなことが起こっているのだと。おそらく自分は、サナトリウムを、それまでに得た空想の魔院ヤコウジと勝手に結び付けていた。祖父は86年前、結核で死んだ。父は0歳だった。想像の白、青。
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奥泉光『浪漫的な行軍の記録』読了。事実を認めた戦記物ではない。濃く重苦しい記述の内に、ミルフィーユのように織り交ざる(つい俳優の八嶋智人さんを連想してしまう)緑川の、それは主人公『私』の分身であるのかもしれないのだが、正体は不明。なんどか読み返したけど、時をおいてもういちど読む。
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実家の家族と食事をしているとき、妹から、ジュラシックワールドはシリーズ第一作へのオマージュが込められているのだと聞かされた。「パンフレットにそう書いてあったから。七百円の」ああ、だから自分のあの感得は自然だったのだなと思う反面、それは制作者が言葉で表現することではないとも思った。
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臭いを出す者は、現代日本にあっては、敗者を意味する。もうすぐ読み終わる本の中に、太平洋戦争末期の南の島で、腐敗して膨満し臭気を上げる日本兵の遺骸の描写が出てくる。臭いを出す者は、そこにもいた。臭いは映画やドラマでは伝わらないのか。あえて避けているのだと思う。かっこ悪くなるから。