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テレビの報道番組では、「原因」というべきところを「背景」という単語ですり替える。「実態」は「側面」と言い換え、「明るみに出る」という意味で「浮かび上がる」と表現する。言葉を研ぐことを意図的に避けているようだ。それでは言及する対象や因果関係があいまいに伝わってしまう。あ、それか。
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司法試験問題の漏洩が発覚した。そのきっかけになったと伝えられる「問題が漏洩していなければ書けない解答」を見てみたい。「青柳教授は、教え子である女性だけに教えるという、実に不平等な指導を行っていたことになる」『フジテレビ系(FNN)9月8日(火)18時2分配信』という記事も笑える。
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大昔の中学生のころ、切手を蒐集していた。切手全体を保護するために、西ドイツ製のクレームタッシェンという黒と透明のフィルムを貼り合わせたシートを使っていた。あれから四十数年。切手はまだ残っている。いまグーグルでクレームタッシェンを引用符つきで検索すると結果は1件、しかもリンク切れ。
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パソコンやルータ、LANボードには、世界で一意のMACアドレスという固有の識別番号が割り振られている。電話番号とは違い、機械に焼印が押してあるようで子どもじみている。国別、メーカー別の階層構造を鳩首で合議したのだろう。MACアドレスは変更可能ともいう。選んで混乱を招く人もいる。
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誰かクエン酸の使いみちを教えてほしい。気に入らんやつの料理に一杯盛る、とかいう以外で。あと、シソジュースはちょっと。福祉施設でボランティアさんたちがやっていそうだが。とにかく、小さじ半分でも口に含むものなら、床を転げまわるほどの酸っぱさの能力は、できるものなら伸ばしてやりたいね!
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このクエン酸、小瓶と大瓶があって、小瓶は25グラム入りで二百円。大瓶は500で千円。四倍ものコスパの違いに大瓶を買ったが、ちょっと心配になってきた。パッケージには、丹念にシソジュースの作り方ばかり書いている。他に使いみちはないとか? 舐めてみると、人を寄せ付けない異様な酸っぱさ。
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街にレモンがやってきた。シトロンソーダがやってきた。シトロン、シトロン、レモンの香り。春日井シトロンソーダ。この古い粉ジュースのCMで、ずっと私はレモンをメロンと思い込んでました。シトロンとは枸櫞(くえん)のこと。クエン酸のクエン。日本語だった。驚き。薬局でひと壜買いましたよ。
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腑に落ちない現実という実体。海底ケーブル。こんな子どもじみた発想のものが、七つの海に張り巡らされている。考えてみれば、それしかない、そりゃいるわな。何らかの方法で繋がれていなければ、通信はどうにもならんし。それでも距離が距離だけにすごい。日本では明治四年に始まったことにも驚いた。
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ブラックホールを天体と見ること。何でも吸い込む「穴」なんでしょ? どうして「存在」のように扱えるの。素人向けの解説本には、穴のイラストが描いてあるので存在には見える。「ブラックホール近くの事象の地平線では時間と空間が入れ替わり……」人が知らんと思て、でたらめ言うとるな、こいつら。
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腑に落ちない現実という実体。リレーショナルデータベースでは、複合キーを候補キーとする場合がある。複数のキーのうち、どれが欠けても一意性を保てない場合、それらをひとつにまとめてキーとするのだ。意味はわかる。フォルダ名とファイル名の組み合わせみたいなものだ。でも、すとんとは落ちない。
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腑に落ちない現実という実体。民法総則第二章法人。財団法人の「寄付行為」を社団法人にいう「定款」と同じこととして解釈しなければならない。第三十九条が準用を指定している第三十七章は確かに定款であって、これを寄付行為と呼ぶことはおかしい。この条文は起草者が酒に酔って書いたのに違いない。
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理科ができた小学生のころの僕は、直流回路の仕組みを知り、知りきったつもりになった。だから切れた回路には電流は「絶対的に・根本的に」流れないと主張した。僕の剣幕に鼻で笑った教師は、交流の仕組みを教えてくれた。ショックで打ちのめされた。この世でありえないものはありえないとすら感じた。
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さて古代錬金術においては、金属を変性し金を生成する過程においてはすべて、賢者の石、エリクシルのステージを、必ず通過しなければならない。この過程を経なかったものは、いくら金を称しようが、すべてまがいものである。アルコールからお酢ができました、などという変化とは根本的に違うのである。
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昔、故松下翁が、記者会見の席で、記者の一人から、それが哲学なのかという質問を受けた。翁は、哲学とは何かと逆に聞き返し、答えた記者に、それならちょっと違うとの主旨の返答した。あのとき記者は「哲学」をどのように説明したのか。つまりは「すぐ人に聞かずに自分で考える習慣のことです」とか?
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東西東西、といっても自分が相手だが、とまれ鎮まれ、俺。どれほど生きても腑に落ちないものが数多ある。物心付いたときから精神の成長の寄る辺であった現実社会──クレヨンで描いていた絵を踏み消して擦り寄り申してきたこの大木が、俺に向かって赤い舌を出す。別に考えなくても生きてはいけるけど。
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かように自分には、小さなものから大きなものまで、現実という実体に違和感をもつ事例がいくつかある。いまもある。この世の真の姿は、絵本などから仕入れたさわやかな空想とは違う。渋くておもしろみに欠け、ディズニーリゾートのメニューとオリエンタルランドの決算書ほども違いがあると思っていた。
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はるか昔、思春期の入り口で友だちから聞いたこと。おい、あの話、ほんとにやっとるらしいぞ。まさかおとながそんなことを本当にしているなんて、うそに違いないと思った。「ゾウとキリンがけんかしています」とでもいうように、渋い現実の実体を知らない子どもが、絵本じみた夢想を語っているのだと。
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児童を前に、黒板にチョークで小さく点(、)を描いて、これは何かと聞くと、いろんな答が返ってくるという。「ハエ」「種」「ほくろ」にはじまり、調子に乗って、世の中のあらゆるものを口にする。同じく、円をひとつ描いて、心臓だとかピリオドだとか説明できるデザイナーとはすごい人たちだと思う。