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個人の意思であるはずのものが、一人称代名詞に憑依される。邦語において二百を数える一人称代名詞の取替えによって、賛否すら変わる。それを「立場上」と言い換えると、多くの人が頷く。「手前どもでは大賛成でございますが、本職に異存これなく、わたくしには思うところあり、僕はやっぱり、やだな」
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きのうテレビで「入水」のことを「にゅうすい」と声に出す人がいて、そんな読み方もあるのかと辞書を引くと確かにあった。そのまんまの読みの慣例は、弱者救済の措置のごとく他にも多数ある。そういえば「入来(じゅらい)」もあったなあとポーの『黄金虫』を引っ張り出してきて、読んで、得した気分。
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世界の平均より高い知能は東アジアに多いw。国民の高い知能や学力を抱いたまま破滅に向かった国があった。人として生きるために別の能力が必要だと感じる。この国で物事を決定する役割を担っているのは、要請されたおふざけには応じなければならないと信じている人々だ。いつまでもおふざけではない。
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秋分も過ぎて、日脚が早くなった。きょうは中秋。久しぶりにみる月だ。満月にわずかに欠ける光を受けて、青鉛色の背景を、その色だと知る。西から、まばらな雲が来た。月にかぶさって、うろこのように光る。家族を呼んだ。月、見てみ。もう見たという返事がかえってきた。
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スポーツ飲料の粉末を1.5リットルのペットボトルに入れ、水で溶かして飲んでいる。冷蔵庫から出してみると空気の部分が少しへこんでいる。低い気温で気体が収縮したのだ。蓋を開けて室内の空気を吸い込ませて冷蔵庫に戻し、しばらくしてまた出すと、やはりへこんでいる。こやつめ空気を吸っている?
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ニュアンス(nuance)という語は、本来の意味(delicate difference)で使われる例を見ない。「ニュアンスの違い」などと雰囲気や底意の意味で重語的に使われる。フラ、サハラ、神宮だけでは伝わりにくいから、フラダンス、サハラ砂漠、伊勢神宮のように付け足すのと同じか。
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方言のことを言えば、いま住んでいる土地には、大昔は「げろげろ」という語があった。形容動詞と似た使い方をする。「(主に甘味により)満腹(満足)である」という意味で、身近な者同士でよく交わされていた。「おはぎ、もひとつどうだすな」「あもう、げろげろ」使っていた人は、ほぼ死んでいる。
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津市の南西部では、大声のことを「やから声」という。その甚だしいのは「大やから」。酒に酔ったり調子に乗ったりして大声で歌うのは「おおうた」という。「あんたとこ、ゆうべは、おおうたで(よろしかったなあ)」酔いから来る必然よりも、いくらかの主義・趣味による「おおうた」の方が滑稽でいい。
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Firefox がまたバージョンアップを言ってきてくれて、応じたら、番号が 41.0 になった。アドオンの mht はどうかというと、書き込む方も読み込む方も、以前どおり使えたのでひと安心。あまつさえ、Firefox は、mhtのソースまで、ほぼ精確に表示してくれるのがうれしい。
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選挙の前には、あちこちで飴がばらまかれるでしょう。別に拾って食べてもいいじゃないですか。ばらまきなぞ、選挙前の政治家ならだれでもやりたがる発情みたいなものです。そんなものが投票行動と結びつくと考える方が哀れです。いままでみたいに飴をねぶってヨイヨイになるかどうかが試されるのです。
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安保法に反対の行動は、まず来年夏の参院選でスタートします。本丸を落とせなくても、回りを焼けば焼かれた方は本丸に弓を引きます。次は衆院選です。水に流すことができないことがあるという当たり前のことを教えてやりましょう。それだけでは済まないでしょう。憲法に刃を向けた特別職たちですから。
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さてこのパン屋。値段が高くなったのと、客を肩で押すような店員の態度が気に入らない。それならもう行かないかというと、次もきっと行くだろう。カレーパンは、極上ルーを薄くて強いパン生地の袋に詰めて揚げたもの、と説明したい。熱いルーがのどに流れ込んでくる。食べるというより、すする感じ。
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「たかす」と呼び名のお医者様が、安保法案の可決をよろこんでおられた。さすが人体の形成をなりわいとしてきた方の賛意は、イメージがほかとは違い、なんというのか、えもいわれぬ趣がある。兜町の株屋さんなら、そうやって想像をめぐらし、多数の投資家が納得すべく因果を解きほぐしてゆくのだろう。
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「今日も佳い日だネ」みたいな、文末の「ネ」「サ」「ヨ」は、終助詞と呼ぶらしい。昭和の名残どころか、明治時代からある。二葉亭四迷の『浮雲』に頻繁に出てくるし、むろん、奥泉光『新・地底旅行』の自称積学、富永丙三郎も使いまくっている。しかし昭和も、そんな捉えられ方をするようになったか。
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女子のひとりから、「あんた、なんできょう来たん?」と聞かれた。はみだしになるのがわかっていて、どうして来られたものか、予定が狂うではないか、ということらしい。母親が息子にというより、おばあさんが孫にゆっくりと詰めるような聞き方だった。そんなことも理解できていなかった丸刈りの十四。