--
『このおけらには、ありもしない話をでっち上げて、ひとりで腹を立てるくせもありました』とは、すなわち自分のことであって、たとえば「食文化というものは存在しない。人の五欲を体現するものは文化とは呼ばない」という命題をでっちあげ、それに反論する人たちの非文化への差別意識を妄想している。
--
テレビ番組の劣化が度を超えている。子供だましに近く、ぜんたい、ゆるキャラの様相を見せ始めている。ある事件の報道で、「遺体が川に浮かんでいた」と読み上げた民放があった。「川で遺体が発見された」とするのが相当だろう。書いた人のセンスを疑う。記事は見たまま聞いたまま書くのではよくない。
--
T子は、死ぬほどつらい経験もいまの幸せにつながっているのだと思えるという。なら自分はどうか。たとえば自分は教師は嫌いだ。生徒だった当時よりも嫌っている。これはいまの自分の方が劣化しているとも考えられ、状況はしだいに悪くなるという予感もあり、はたして将来、過去の全肯定と相成るのか。
--
丈母T子は、子どものころは言うに及ばず、結婚してからも苦労の連続だったという。自殺しようと考えるたびに僅差で残ってきた。いまはすごく幸せだとつぶやく。なんでもないある日、玄関の引き戸を閉め、庭先に目を向けたとたん、涙があふれて止まらなくなったと言っていた。過去の全肯定という高み。
--
★昔の記憶をたどってある少女を捜していた。捜して探して、ある会社のような組織の中にいることを突き止めた。中庭に集まってもらい事情を説明していると、その中からひとりの少女が現れて私を見上げ、自分のことを話しているようだが、記憶にないしあなたの想いにも値しないと言ったので寂しかった。
--
リベラルの種を踏みにじるのは軍靴とは限らない。保守への傾斜がファッションとなりかけている。馬脚が現れた。革新勢力の国民に向けた地道な働きかけは、DQN相手にユニセフへの寄付を募るのにも似て、痛ましくて見るに忍びない。でも「もうお前ら、好きにせい」などとやったら、生き残る道はない。
--
古来日本の雨乞いは、身分の低い役者からはじめて、それでも降らなければだんだんと位の高い者が行い、しまいには師匠がお出ましになる。そうやって日にちを稼げば、当然、途中で雨を得る確率は高くなる。降雨を待つ民衆も、そのからくりに気づいていながら、ものを言わない。ゆるキャラ現象に通じる。
--
アメリカの古いコミカルなアニメで、森の中で撃った鹿に駆け寄り、仲間に知らせるために「こんなに大きな鹿だ」と角をジェスチャーで示したら、鹿と間違えられて撃たれるというシーンがあった。人間を撃つなんて酷い、銃は規制すべきだ、などという話ではない。森とはそういう場所。毛布の中ではない。
--
結末を知っているストーリーを好む。この性質は食料を土から得る農耕文化の名残だと思う。結末がわかっているので、権威は失墜しないし、させない。狩猟文化では先が読めず、どんなどんでん返しに出くわすか知れない。田圃の中のゆるキャラと違い、森の中のゆるキャラは、田楽でござい、とはいかない。
--
来年の参院選の前に、ツルのひと声で「軽減」税率範囲の懸案事項はめでたく解決。茶番と知っていて流すマスコミ。茶番と知っていてうべなう視聴者。大河ドラマ(史劇だから結末は既知)や水戸黄門に似て、支配者層と大衆を取り持つ精神面での食餌のようなもの。既知の結末を共有する快感。ゆるキャラ。
--
与党内で軽減税率の線引きで協議を重ねているとの報道があった。現在の税率からすると、彼らのしているのは増税の範囲の相談であって、軽減軽減と連呼するのは烏滸がましい。「本来ならば打ち首のところを、お上のお情けで遠島を申しつける」のあれと同じ。本来ならば打ち首にされる謂れなどなくとも。
--
★長細い部屋で髪の長い男性の奇術師と暮らしていた。とても気位の高い近寄りがたい人だったが、あるとき彼のネタの秘密を知ってしまった。それでネタに細工をしたら、彼は手品の興行の最中に大失敗をして髪の毛の大半を失ってしまった。その顔で帰宅して照れくさそうに笑うのだが、意外に男前だった。
--
★地元M大学の敷地内にある施設は荒廃していた。一時在籍していたので、新入生の女子数名を案内するのだけど、構内の南半分にあるクラブの施設はことごとく荒れ果てていて気恥ずかしく思うのだが、ドアや壁を破壊してでも、どんどん行こうとそそのかす。彼女たちと新しい関係を築きたいと願っている。
--
身内に聾者で、かつ唖者のひとがいた。そのひとが「耳の不自由な人」だの「口の利けない人」だの、そんな風にいわれるとしたら腹立たしい。耳も口も不自由などしていない。必要がないのだ。人間たるもの本心ではそれらが必要だとする思い上がった態度が、そんな冗句を作り出し、銭カネだけを衒うのだ。
--
★知らないうちに、人のスマホが上着のポケットに入っていた。古い業務用のような機種で、誰のものかわからない。特定郵便局への通話履歴があったので架電し、わたしは誰ですかと尋ねてみても、ふくみ笑いで答えてくれない。もしやと思い、従兄弟の名前を告げると、相手の態度が変わり、すぐに通じた。
--
「骨粗鬆症」は骨に鬆(す)ができ粗くなる症状で、「統合失調症」では「失調」が問題にされる。一般に○○症とは「○○」の部分が加療の対象なのに、かたや「認知症」という病がある。役人は言葉の使い方がむちゃくちゃである。「痴呆」に蔑視の意味を含める姿勢こそ問題で自らの性格を露呈している。
--
「明治カルト」という語句は、数年前に自分で創作した。オリジナルである。そう思っていたのに、事実は違った。厳密にクォートつきの「"明治カルト"」でグーグル検索してみても三百件、ツイッター内でも数件検出された。さては言葉をいったん認知したあと忘れてしまったのか? でも内心、うれしい。
--
より小さい範囲内での対立は、より大きな範囲内での対立よりも激化する。人間の持つこの性質は、常に支配層によって利用される、というのか作り出される。「命がけ」「純粋」「ぶれない」「守り抜く」。人民を支配する多くのキーワードが彼らの手の中で蠢いている。ばら撒き要員のマスコミも称揚する。
--
汎用性の保全は孤独な作業だ。恋愛論の泰斗であるより、腕を組んで歩く相手のいる方が幸福そうに見えるのと同じ。百年にいちどだけ乞われ、あとは無視される。使い切れない機能が山ほど積み上がるのは必然で、もし忌むべき事柄であるなら、巧緻を極めた作戦を練るよりも、さっさと終わらせた方が得策。
--
日清戦争の前と後で、日本人の精神は変容したのだと斎藤某氏は述べておられた。薩長がでっちあげた明治カルト政府の精神は、現代にも連綿と内通しており、この国においては、天皇が埋没する世であるほど安寧であるのは間違いなく、その逆もまたしかりであることを、百五十年の歴史の中で証明している。
--
★なんども目にしているので覚えているはずのゆるキャラが少し違って見えて、それを回りに伝えるのだけれど、誰にも相手にされない。たしかに声も同じだし仕草もそっくりだけど、顔かたちがどことはなしに記憶と異なる。でも違って見える原因はあなた自身ですと言われるのが怖くて深入りしないでいる。
--
違憲状態との判決がこう連発されると、裁判官の内心もこのままでは陳腐な下級審から一生抜け出すことができぬと揺れ動くのは当然で、ヨーグルトのごとく液体や固形、あるいはゲル状にと分化が誘発され、而して判決文の中に「オニ違憲状態」とか「違憲状態第三ステージ」の惹句が現れるのは必定、状態。
--
メンサを取り上げた面白半分のテレビ報道。標準偏差24を採用する民間テレビ的誇張仕様に、また呼んでほしい一心でか、だれも口を挟まない。メンサはIQ148の天才集団だなどと噴飯もの。ものを知る人からせいぜい、目尻と鼻の間で笑われるだけ。 https://www.youtube.com/watch?v=oGjJ3wlPcnA
--
芸名が「クン」や「閣下」で終わるなら、敬称を付けて呼んだりしない。それを利用すれば、相手に意図したとおりの呼ばせ方ができる。○○教ならば宗教法人のひとつに過ぎないが、氏神には「教」は付かない。いずれ鎮守、護国、国体護持と連なり、個々人の都合を許さない、国民的解釈の色を帯びてくる。
--
だまされる側は、何をやってもだまされる。だまされて万歳三唱、だまされて軍国精神、だまされて君が代唱和、だまされて戦地へ送られ、だまされて最前線。戦死体を跨いで帰還した士官は戦後、ひげを落として皺を増やし、めでたく平和論者へ。いまも構造は同じ。だまされて怒り、だまされて諦めている。
--
国民総背番号に一億総活躍。かつては一億総懺悔、進め一億火の玉だ、撃ちてし止まむ。勝利なき弭兵なし。畢竟我々は勝つのであります蓋し勝つまで止めないからそれは当然であります。「○○であります」は長州の方言。「ざます」は薩長の女性が使った山の手言葉。明治カルト以来、この国を支配する層。
--
先月末に亡くなった水木しげるさんは、戦争で左手を失ったが、治りかけた傷跡から赤ん坊の匂いがしたという。絶望ともとれる断面から立ち昇るにおいをそのように嗅いだのは、ご自身の強い生命力によるものだろう。こんな台詞、取材なしに脚本に落とせるとはとても思えない。体験者をまたひとり失った。