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王そのものが反社会的存在なのだろう。はじめに自分が持ち、他人が持つことを禁ず。その法源として当然に「所有」に求める。暴力の別名である。「会議に遅刻するからってあんな非常識なことをするなんて」と笑い怒る。王を決める会議ではないから笑っていられるのだ。「それなら話は別」がてんこ盛り。
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王の濫觴または超法規的行為。大事な会議に遅刻してしまうからと、電車の窓を開け線路を歩いた人がいた。百人中九十九人が「自分ならしない」と声を合わせる。「特別の事情があれば……」と付け加えるころには、周りは「する」人だらけ。そこに王はいない。反社会的と一刀両断して満ち足りる愚か。
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「件」の作者さんは、三重県立図書館で「内田百閒」と検索してもしらんぷりするくせに、「内田百間」ならたちまち百件以上も顔を出すおちゃめなおじいさんです──。などと書いていたが、知らぬ間に同図書館でもOKだった。ただ、リストに出てくる文字は「百間」のまま。戦前は「百間」なんだそうだ。
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青空の中の雲がいい。青と白は他の色を呼び戻す。それ半世紀以上生きて、新しい音楽ではもう自分の世界にトリップできない。飲まないのに酔っているような、あの心地になれない。古い曲でも、聞きすぎると今とが交じり合って酔いが消える。雲を見た。四十五度の仰角で見上げる、荒れに荒れた雲がいい。
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ツイッター社が、文字数制限をいまの百四十字から一万字に緩める腹積もりらしい。文字数制限ちょうどに合わせて文章を作る練習をしている自分としてはいささか困る。大きすぎる自由は不自由を感じさせる。しかし自由が大きすぎると感じる自分自身の方が問題なのであって、制限の後退はつねに好ましい。
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いまの北朝鮮と近代日本との類似 (1)全権を掌握する超越的な人物が存在する(2)(1)の人物の地位は世襲により継承される(3)(1)の人物への忠誠が教育や監視によって維持される ただし現代日本では、憲法により(1)は認められないので存在しない。ゆえに(2)も(3)もない。
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集団美人の個別ブサ論は、ライターの泉麻人さんだったと思うが、本の中で書いていた。若い女性が集団でいると、どの人も美人に見えるが、ひとりひとりの顔をカード化して個別に眺めてみると、そうでもないことに気づく、という内容だった。一覧性の陥穽とも言えるが、戦略的に利用した例もあるだろう。
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地図の見せ方は理知的ではない。しかし、島国と大陸との違いを紙の大きさ(眼球の動きの大きさ)で知ることができる。改頁やスクロールなどに入れられた情報は入れ子にもできるので、情報の全体像を知ることがさらに困難になる。われわれ人類は、動物でもあるわけで、共に持つ理解力は強く捨てがたい。
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情報を目で閲するのにもっとも適した表示の方法は、地図の見せ方、つまり一覧性を最大にすることではないかと思う。改頁やスクロールなどは次善策。国会前に集まった人の数を一万と伝えるよりも、その数の人を写真で示した方が、どのような事態だったのかを直感でつかみやすい。つまりは一進法の勝ち。
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ネット上には、東大生の平均IQは120とある。標準偏差15を用いれば偏差値は63.3。出現率9.12パーセント。これには、東大生ならもっと希だ、11人にひとりのはずがない、と叫ぶ人が必ず出てくる。学ぶ力や記憶力、推理力など、知的な能力同士は互いにトレースするものと思い込んでいる。
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つまりはそういうことですね。日本でいま、メンサの入会テストが人気のようで、とくに関東ではすぐに満席になるようだ。メディアを通じて知名度があがったせいでもあるだろうけど、大甘の結果を返すIQテストもどきがネットに多く転がっているのも一因だと思う。而して桶屋ならぬメンサが儲かる道理。
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お縫い子テルミー読了。主人公テルミーの、シナイちゃんとの関係に素直になれないひっかかりを、素直に読めずに、つまりは肝の部分を飲み込まずに捨てている。再読でこのありさま。齢五十台の読書は二十台のそれとは別物という三田氏の言葉が胸に刺さる。それも嘘。刺さらない。テルミーの針が恋しい。
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しつこくお座敷小唄。しかし逆に肝の部分で、「雪に変わりが あるじゃなし」が正しいのだとする意見にもうなづけない。何だかいらやしい。主旨はそうであっても、気象や人権や法令の知見を駆使した結果にも似た、女であることにはかわりはない旨、理路整然と主張する歌詞ではないと思う。文芸だから。
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「お座敷小唄」ではまず、「雪に変わりがある」とする解釈は何がどうあっても絶対に駄目です。「とけて流れりゃ皆同じ」という妖艶な結びに逆接では綺麗につながりません。窮余、歌詞に手を入れられないのなら「ないじゃなし」を「ないで為し」と肯定ととる。花街にそういう言い方はないのでしょうか。
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「お座敷小唄」の歌詞「雪にかわりがないじゃなし」をそのままに「雪に変りはあるけれど、とけて流れりゃ皆同じ」の意なのだと解く人がいる。それなら「富士の高嶺」と「京都先斗町」のかけ離れた「雪」を、「も」でつなぐのはおかしいし、全体、文意が萎びる。事大主義が最悪の解釈を選ばせる好例か。
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自分は一高には寸毫の関わりもないが、寮歌「嗚呼玉杯に」の一節「嗚呼玉杯に花うけて緑酒に月の影やどし」の主格が、続く「治安の夢に耽りたる榮華の巷」の俗人と解すと何かで読み、正気を疑った。一節の歌詞は比喩であって、宴会の描写ではなかろうに。世俗の絵をタイトルに持つのでは不自然だろう。
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「彼が面接に落ちたのは、英語ができなかったからではない」という文を読んで「彼は英語ができた」と断ずる人がいるので世の中は広いと改めて思う。通常の解釈は「たしかに英語は不得手だが、落ちた原因は別にある」です。もしできたのなら「英語力を発揮したが、他の理由で落とされた」としただろう。
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ウイン10めの横着にはほとほと手を焼きまいらせそろ。もはやMSを騙る悪党の放つマルウェアの所業と見つけたり。「windows10 ネットワーク 切れる」で何度検索したことか。ネットワークアダプターの更新やら、NetLink57某のダウンロードやら、異国の地で同胞に救援された気分。
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こうして脇のノートパソコンからウインドウズ7が消え、よりおせっかいで見当違いなインターフェイスに囲まれることになった。かねて噂は聞いていたので慎重になろうと心懸けていた。それなのにあっさり飛びついた。「やっとあなたの番が回って来ました」と相手が言っているような雰囲気があったから。
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ウインドウズ10は八月十九日に予約が成立した。そのダウンロードの案内がいまごろになってやってきた。ダウンロードそのものは四分間で済んだが、それから先のインストールが長い。その先のセットアップがさらに長い。さらにその操作感たるや、ひとことで喚くと「ウインドウズ7を返せ!」に尽きる。
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昔、漫才師から始めた芸人が、陸上のベン・ジョンソン氏のドーピング疑惑について口を挟んでいた。氏が何も知らないと惚けていると伝えられると、芸人は「顔色も変えずに?」とおどけた。肌の色が黒いので赤面や蒼白が表情として出にくいことを、明らかに揶揄した発言であり、侮蔑以外の何物でもない。
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人を差して黒人だの白人だのと言う必要があるのか。肌の色は他にもたくさんあるし、そもそも肌の色は「黒」でも「白」でも「黄」でもない。それは人に貼るレッテルの色。目の色も髪の色の変化も無数にある。知人は高校時代、髪の色が薄いという理由で、教師に黒に染めろと指導された。被支配色なのか。
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韓国与党代表が、練炭を運んでいた黒人留学生を見て「あなたは練炭の色と顔色が同じだね」との差別発言をしたという。白人の留学生に向かい、雪を指差して「あなたの顔色と同じだね」と言ったら差別になるのか。該発言を差別だと騒ぐ人にとってこそ、天から黒は醜い色であり、警戒すべき色なのだろう。
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「出ずっぱり」とは「出づっぱり(出突っ張り)」であって、ずっと出番があるという意味。一向に出番がないという正反対の意味と勘違いするといけないので、「でずっぱり」ではなく「でづっぱり」と覚えているのに、PCは、前者でしか仮名漢字変換をしてくれない。幼子をあやすように登録しておいた。