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花沢健吾の漫画「ルサンチマン」新装版上・下を読了。雑誌連載は十二年も前から。知らなかった。同じ内容の漫画と私小説を読み比べることを考えた場合、文字だけで作られた作品の方に軍配が上る道理はないとさえ思えてくる。タクローや越後の顔かたち。十二年前に書かれた十一年後の世界がいとおしい。
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空気を読んで、うなづく自分を許せない。マスコミにより報道される非常識は、それをとがめる声の大きさに左右されがち。非常識の程度が、報道機関の判断に依存している。「ある意味では不経済」「そりゃもう国民の義務」「ありえない非国民ぶり」。ゆえに、あらゆる結束、あらゆる統一には参加しない。
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たいていのドラマの筋書きでは、「本当のことを言って相手を傷つける」よりも「嘘をついて相手を傷つけない」方に脚光を浴びせている。それは脚本のお約束。そうやって、嘘が美しく見える状況を、ことさらに作り出しているようだ。まさに主役級の扱いであり、罪業の中に埋もれた異物という感じはない。
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愚問には、短い切り返しの方が似合う。Et alors ? は、「それがどうした」と訳するよりも(そういう意味だろうけど)、「で?」の方が言葉として磨かれている。「あなたには愛人がいるという情報ですが」「で?」日本では、お決まりの平身低頭パフォ。妻まで出てきてこんにちは。
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停止を求める非常ボタンと、停止をさせる非常ブレーキの違いなのか。列車の車掌は、非常ブレーキの操作を躊躇したと答えた。二十年前、あるスキー場で、目の前のリフトに乗っている子どもが、スキーを雪原に引っ掛けて落ちそうになっている姿を、通報もせずに見つめているだけだった、あのときの自分。
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Aさん(Tさん・Dさん)が書いた話で、枕元の家族に、19歳からあとの自分は死んでいるも同然で妻も子どもたちも本当は愛してはいない、と謝るシーンがあった。四十二年前の春、ある人と交わした言葉で、のちのすべてを失ってしまった。人生は一度きりだと誰が言った。死ななければ。夢の中にこそ。
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自分が見聞きして感動していることが他人でも同じなのかは、確かめようがない。はたして「おいしい、きれい」という言葉で状況を共有できているのか。しかし絵文字や「ボケて」の言葉は違う。こう表せばこう感じるだろうという思惑が、手に取るようにわかる。自分との一体感がある。我ボケる故に我有。
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ゼノンの『アキレスと亀』は、哲学十全みたいな読み物にいまだに出ている。結句、パラドクスに見せかけた偽物。アキレスが亀のいる位置まで進むことを、あたかも追い越そうとする意志がもたらす行為であるかように誤認させている。無関係なふたつの命題を「だから」という接続詞で連結するという誤り。
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さくらんぼは、ひとつの容器につき、十七か、十八あった。残った種を指先で数えた。三連休の初日、雨が振ったり止んだりする、明るい土曜の午前だった。それから家族は、津市のリージョンプラザの図書館に行き、ついでに、津の街を描いた絵の展示会を覗いた。いつもと変わらぬ、貴重な日常を得ている。
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敵の屍骸を敵からの弾除けに使う。「日本死ね」はヘイトだと? よく言えたもんだと呆れる。論理的な整合や知識層からの耐性よりも真ん中のマスをつかんだ方が勝ちという、コスパにほくそ笑む態度はあいかわらずだ。弁解の稚拙さよりも、牽強付会が際立つ。この先を考えると、むしろこちらの方が怖い。
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羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』読了。祖父という『スクラップ』への道のり、あるいはそうした人生に抗う、二十八歳の主人公健斗の『ビルド』を対比させつつも、これは通俗の介護小説ではもはやなく、老いも若きも、わき目も振らずひたすら死地へと向かう、人間の肉体に贈る餞別の言葉なのか。
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昔に生きた古代の種も、水をかければ発芽する。燃やし尽くしたはずの、しかし奥にしまわれていたものが、ある日ある朝、目覚めれば、おそらく自分は崩壊する。ドアの向こうにいる人物がだれかによって予感された、狂乱の午後のかわりに、罪もないおだやかな春の日を得たことに感謝しなければならない。
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同様に、幸福は誰にもどこにも見えないのに、その人だけがふと、そこにあると気づく場所にいるようにも思える。幸福は手ぶらで何の力もなく、自身がそう呼ばれることにすら気付いていない。自分自身、ある命との関わりがあり、過去の全肯定は辛い。しかし、それらがくれた花に気づかないのも辛いはず。
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不運とは、思い違いをしたことの結論であり、不幸は、それを嘆きたい者を選んで訪れるのだ、と考えることもできる。「もしあのときああしていたら……」と振り返るときもある。でもそれなら自分はとうの昔に死んでいて、そんな後悔が成り立たないかもしれないし、別の後悔に苛まれているかもしれない。
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過去はすべて、いまの自分の味方であると信じている。いまが幸せならば、かけがえのない人を失いたくないならば、過去を蔑ろにせず、全肯定する。はじめはみんな転んでいた。八回起き上がることができたのは、七回転んだからこそ。夢の中の自分は、過去をわずかに変えたことで、もとに戻れなくなった。