小学校の帰り道、田んぼのあぜ道に生えるカラス麦を蹴とばしながら歩いた。いま、その仲間が食卓の主席を占める。列島には「日本人なら米を食え」とのしわがれ声がこだまする。でも朝昼晩、燕麦と大麦の混合粥を主食とする私も日本人。豊富なたんぱく質と食物繊維。最強の便通。キロ250円の経済性。
自分のことを声に出して自分に向かって説明する。別人になりきって「この人は」から始めると面白い。「この人はお釣りを間違って多くもらうことが大好きです。それを正直に申告して誠実さを装えるからです」とか。でも続けていると気付く。この別人は結局、自分に他ならない。言葉で告白などできない。
どこからかは忘れたけど、この冬に届いた郵便封筒には、金属のような光沢をもつ赤い鳥の切手が貼付されていた。「冬のグリーティング」という切手らしい。郵便局の人たち、よほど忙しかったのか、その切手は消印を免れていた。墨の汚れのない使用済み。使おうかとも思ったけど、手許に残すことにした。
スマホから、三宅民夫さんのようなやさしい声が届く。「イルネージュさんの営業日と営業時間についてお尋ねしたいのですが」。うれし恥ずかしくも、月曜から日曜の朝9時から夜9時まで、と詰まりながら答えた。なんせ、歩きながらだから。三宅さんの声が見上げる青空に消えてゆく。お世話になります。
先月14日に近所でグーグルカーとすれ違ったときの画像がグーグルマップに反映されていた。道を譲ってもらったので、真横に並んださいに手で挨拶したけど、コンマ何秒かくらいの差で、その瞬間の写真はなかった。東京の路地で怪訝そうに写っているおっちゃんみたいに、ぼかしを掛けられて出たかった。
人と違うことは悪いこと──。そう察するのは初等教育のころから。「みなさん、いいですか」「一列に並びましょう」「食べるのはイタダキマスしてから」「肉の嫌いなんは田舎もんや」「全員でアリガトウを言いましょう、ハイセーノ」児童の多くは嬉々としていた。はみ出し者を見つけて勝ち誇っていた。
また口から出たイケンジョウタイとの発語。あの人たちも、つまりはリーマンなんだから、ヒラメと言わず大目に見てやろうよ。そも、期待が無理筋。あと、亜種として、プレ違憲状態・本格違憲状態・違憲状態ステージⅡ・違憲状態ファイナル・違憲最後の一葉・わたし来年退官、とか。時間稼ぎは給与稼ぎ。
★そのあと、彼女と連れ立って、敷地内のプールに下りた。恋人を装ったりして。自分が泳ぎ始めると、水に浸かった人たちが自然に左右に分かれて水路をつくってくれた。自分はきっちりと息継ぎをして、五十メートルを泳ぎ切り、何度も往復した。スキンヘッドが大勢いた。湯灌だったのかもしれなかった。
★何かの施設の廊下で、スタッフらしい若い女性とすれ違いざまに朝の挨拶をしたが、無視された。その稚拙な態度が気に入らなくて、角を曲がって追いかけ、大声で咎めた。全身が白づくめで完全スキンヘッドのその女性は、歩み戻ると、僕の耳元に口を寄せ、声を出さなかった理由を語った。うれしかった。
きょうのお昼は、白子の「カレラ」で。写真を撮ってないので、証拠の絵はありませんが、日替わりランチはとってもおいしかった。このお店の特長はジャズと猫。知り合いのイラストレーターが描いた手のひらサイズのチラシをもらった。換気のため、入口のドアが空け放しなので、猫が自由に出入りしてる。
文京区にある株式会社ユーティルという会社が主宰するWeb幹事というサイトで「津市の優良ホームページ制作会社5社をプロが厳選!【2021年版】目的別におすすめします! 」の中で、ホームページ制作イルネージュをいちばん初めに掲載していただきました。 https://web-kanji.com/posts/tsu#h-1
大学共通入学テストの問題が新聞に出ていたので、国語の現代文のみ問題を解いてみた。45分を費やして百点満点で39点。そんなら私がと、嫁が横からしゃしゃり出てきて、いっさい問題文を読まずに勘のみで19問に挑んだ。2分ほどで出した答を採点すると38点。俺の43分間は1点のため。悲しい。
★若い女性歌手が、わずかに首を右に傾け、ギターをかき鳴らして歌いながら、正面から近づいてくる。半歩下がった左右には大勢の若い男性の踊り子が広がり、白目を剥いたような薄ら笑みを浮かべて従っている。ときにくるりと回りながら。──地震に負けるな。コロナに打ち勝とう。そんな歌詞の白昼夢。
父は生後半年で父親を失い、28年間、母子家庭で過ごした。肺結核の夫を見送った三十路前の無学の女(わたしの祖母)のまわりには、あらゆる有象無象が降りかかっただろう。祖母は後家を通し、家屋敷を守り、家族が5人に増えた28年後に鬼籍に入った。33年後のいま、息子が遠い背中を追っている。
実父の告別式は家族のみの5人で行った。葬儀業者にいくらか積み立てをしていたとのことだが、法要も含めて多くを省略し、あっけないほどかんたんに済んだ。母は、これもコロナのおかげだとの意味のことを言った。父は親戚を含む多くの人出を想定していたらしいが、泣く者だけが寄り添う葬儀となった。
対向車はグーグルカーだった。自宅近くの路地の脇で、わたしのアイを待っていてくれた。すれ違う際に、自然に合図の右手が挙がったのが写ったかもしれない。グーグルカーが自宅の前を通るのは九年ぶり。屋根に地球儀みたいなのを載せた緑の軽自動車。世界のひとかけらを世界中に届ける人は女性だった。
雑草という草はない。みんな名前がついている──。昭和61年3月20日三版発行「特装版人生読本名まえ」に収録の梅本克己/1978年2月三一書房刊(『梅本克己著作集第九巻』所蔵)から。1974年1月没の哲学者は「私は草を知った。草の数は実に多い。しかし雑草はないのである。」と続けた。
新型ウイルスが、ことごとく旧型株を打ち負かして置き替わる一方で、人体に対しては手も足も出ないか若干の発熱で済むとなれば、これぞワクチンの機序に他ならぬとの高評価を得て、あまねく人の世に受け入れられて浸透し、そしてある晩、手拍子を打つ歓迎の満座の中で豹変する、などというストーリー。
N協会ラジオはよく聞く。外部から招かれたゲストが話す場面では、伸びきった語尾が耳につく。「……がぁ」「……にぃ」「……でぇ」「……のぉ」など、毎度しつこい。とくに教授や団体代表である女性に多い。広い講堂で話すときのくせなのか、強調しなければ聞いてもらえなかった歴史の残り滓なのか。
古今東西、支配者はスポーツを礼賛する。スポーツは、人体に依存した特異で緻密なルールと、それに盲従する強靭な精神と肉体を、対戦という外形で顕すことで大衆を感動させてきた。大衆は自分以外の誰かが定義した敵の存在を見つめる。非日常的な制約は、参加者を痛めつけ、励まし、ときに楽しませる