2016-12-31
新潮創刊一〇〇周年の記念に出された「名短篇」を図書館で借りた。一九三〇年掲載、嘉村磯多「曇り日」を手始めに読む。私小説の極北とされる。とくに(了)の手前、三百六十字からなる段落は驚異に値する。お経のように何度も読んだ。私小説を書くということは、これのコピーを作るという作業なのか。
2016-12-27
ひょっとしたら古墳かもね。そう閃いた俺ってなかなかロマンチスト。ところが北東方向には、西池などというあけすけな名前の古池があり、その名前と位置関係で考えると、この空き地めは池よりも格下ということになる。いったい何の西なのか。呻吟しておる。近くに棲む人に聞けば五秒で解決するものを。
2016-12-27
売り惜しみがごとき高値を付けていた赤や緑のグッズが、割引シールを貼られて通路脇のワゴンセールに居並ぶこのごろ、正確に言えば二十五日の午後、自分は例の正体不明の空き地、事実は、空いているとはとてもいえない有毛過ぎる小山に立っていた。笑わば笑え。ちかく自分は、この正体を暴いてこます。
2016-12-25
イブは極楽湯にと決めていた。この日に正規の料金を支払った客は、後日のご招待券がもらえるのだ。これを一金二湯という。午前中から意地汚く長風呂に耽っているうちに湯に当ったようだ。ようよう脱衣所までたどりつくも貧血状態がひどく、丸出しのまま床に倒れ込んでしまった。これを一湯二金という。
2016-12-22
Y市に住むTへ。Nの進路は決まった。Tの「希望に満ちた未来に、お互い行けるといいね!」ということばが痛み入る。自分は、人生とは崖から飛び降りてからの八十年をいう、などと嘯いてきた。死という大業を成し遂げるための助走期間に過ぎないのだと。ピクシブに登録した。未来を見るためでもある。
2016-12-11
松浦寿輝『あやめ 鰈 ひかがみ』読了。松浦は好きだ。幻想的で腐敗していて。でもちょっと、ほんのちょっとリリカルが過ぎていて。昔に読んだ『花腐し』の中では、芥川賞受賞の表題作よりも『ひたひたと』のほうが好きだった。『ひたひたと』は自分の中では町田康の『ぎれぎれ』と同じ位置を占める。
2016-12-11
ナマケモノは自分の腕を木の枝と間違えてつかみ落ちて死ぬ。ナマケモノが地面を歩く速さは時速0.1Km。ナマケモノが一日に食べる量は野菜8グラム。ナマケモノは自分の毛に生えた苔を食べて生きていられる。ナマケモノに筋肉はほとんどない。ナマケモノは死を悟ると一切の抵抗をしない。ナマケモノは絶滅危惧種ではない。
2016-12-11
ピコ太郎は、AIである。ペンは教えたから知っている。アップルも教えた。ふたつの単語を連結して新しい単語を作り出す技術も伝えた。ひとつ目がふたつ目の種になることも、動きで表現するたいせつさも。身近なものだけを使って見たこともないものを創り出す。空気を読んでいては気づかなかったもの。
2016-12-1
村田沙耶香『コンビニ人間』読了。冒頭の「わたしってこんな変な子どもだったんですう」という取説文がつまらなく、何度も放り投げていた。が、白羽が絡むようになってから俄然おもしろくなり、ページをめくる指が勇む。こんな速読は久しぶり。人間とコンビニ人間との対比はあえて塩辛い味付けなのか。
2016-11-25
尾鷲市須賀利町。行って見たいと思った。82年まで文字どおりの陸の孤島。畑がない。田んぼがない。すべての産業が漁業に集約されている。村のお年寄りは、生れてこの方、鎌も鍬も握ったことがない、みたいな。村全体が釣り場と同義で、魚以外にやることがない。他の選択肢を求めなかった村、なのか。
2016-11-23
嫁が図書館で借りてきた米澤穂信『満願』を本棚から引っ張り出して読む。濃密な六篇からなる短篇集で、どれも終盤での流れがテクニカルに過ぎるきらいを感じたが、大いに楽しめた。『万灯』がよかった。『柘榴』も好きだ。自分の目指しているものと明らかに違う読ませ本。南国の美人に出合った気分だ。
2016-11-7
昔、母の実家に灌漑用の単気筒エンジンがあった。親戚が集まる餅つきイベントには必ず登場し、冬休みに入ったばかりの子どもらを怯えさせていた。あのときの年寄りはみんな死んだし、あやつももう捨てられたと聞いた。写真はJA祭りに集められたエンジン。民芸品館などではなく、莚の上がよく似合う。
2016-11-4
星霜幾十年、旧るにつれ磨り減る奥歯を嘆いている暇はない。物心とともに得たはずの慎み深さは、いまや喪家の狗のごとくうち枯れ、その副作用として現れる外観は、たちまち傲慢と滑稽に堕する。謙虚を第一の徳目とすると言った。家内は鼻で笑うが、まずは謙虚に六十パーセント程度の慎みを目標とする。
2016-11-3
タイムカプセルをなぜ埋めるのか。それは未来に向けての密告だから。カプセル作りには、急激に変化する世の中で「未来の知恵でこの現在を否定してほしい」という気持ちがあるはず。開けた未来人が鼻で笑う姿を想像している。畢竟その真の意義は「開ける将来」にではなく「埋めるいま」にあるのだろう。
2016-11-2
高校時代に同級だったXは、いま東大教授。六時間目をさぼって駅に向かって駆けたふたりの背中には同じ西日が射していたのに、やはり大きな心が大きな仕事を成す。こちら上司ゼロ部下ゼロの自営厨。霜月の西風をまともに受ける一戸建ての、仕事場にしている京間の四畳半は、しかしながらきょうも熱い。
2016-11-2
心の内を表現するとき、小説や漫画では、「か」「かしら」「ぞ」「ぜ」のように、終助詞がよく使われる。しかしそれらは読者に投げる言葉だからそのように使われるのであって、実体としては存在しないと思っている。現実よりも言語化する(状況を言葉で解する)夢の中ではその虚構性がより鮮明になる。
2016-11-1
画像検索の途中でたまたま、ある小・中学校の卒業写真に出合った。全く別の場所の、しかし同じ時代の生徒たちだった。ぼんやり見ていると、知っている人たちのような気がしてくる。特に女子では、「この人いた!」とか「ああ、あの人ね」とか、ひとりひとりよく見れば、全然記憶にない生徒たちなのに。
2016-10-30
380ページもあったからもうひとこと。『トワイライト』は、視点が多数の登場人物の間で移動するオムニバス形式ともいえるが、全体を貫く──神と読者が共有する視点からすれば、悪者とは、すなわちケチャのはず。お手手つないだ大団円にも出ない。ならばこの人物に切り込み役をやらせてほしかった。
2016-10-29
重松清『トワイライト』読了。重松さんのを読むのは十年ぶり。もっと早くに読みたかった。胸が高鳴る。とてもいいけど感動したけど、やっぱり重松さん、逃げているんだと思う。これは作中の人物が何度も独白する台詞でもある。だれもが徹底した悪人にはならない。顔をしかめるような醜態が出てこない。
2016-10-13
夢の中で中学生に戻っていたが、校舎や状況は見知らぬものばかりだった。教室には好きな子がいたが、恰好をつけている間にいなくなった。帰宅しようと校舎を出しな、その子が右手の校庭にいた。勇気を出して小さく手首を振ると、相手がやはり小さく反応を返してくれたことが、この上なくうれしかった。
2016-10-7
PCとスマホのアクセス比率。超える超えると騒がれた去年は超えなかったが、静かになった今年、比率の逆転は静かに生じたのだろう。モバイルファーストは都民ファーストよりも先にあたりまえになった。PC用のレイアウトの左半分は捨てられることになったが、コンテンツ優先の方向は間違っていない。