2017-5-30
家人はだれもテレビを見ない。きのうテレビの受像装置を全廃した。NHKに解約の連絡を入れ、固定電話も解除した。すっきりした。これからは、ものを知るためのツールは、新聞にネットにラジオ、それから書籍のみとなる。ZTVの依頼で工事に来た担当者は手際がよく、ていねいな説明に好感が持てた。
2017-5-30
ある図書館で借りた「ジル・マーチンものがたり」のがみあきら著。一九六八年の第三版のもの。ちょうどそのころ、鈴鹿市内の本屋(いまはしもうた屋になっている)で父に買ってもらった本だったが、自宅の新築のさいに捨てられたらしい。ずっと読みたかった。読むのは四五年ぶり。ずいぶん覚えている。
2017-5-30
何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる
──いったい何様なのかは知らんが僧形がゆえ追い出すとは。恥ずかしくて情けない。
「何事」や「忝い(恥ずかしい)」がすべてを物語る。西行が神宮を知らぬわけがない。いいように解釈されてきたけど、西行、そんなことでは泣きません!
2017-5-23
アーサー・ビナード「知らなかった、ぼくらの戦争」。図書館で見つけ借りて読む。卓越した日本語をもちいて剔抉されたものは、ときに被害者の側から供されたものをも含む、権力側とマスコミによって被せられた表皮の下にうごめく癌細胞とも呼ぶべき実相だった。現在に通じる。あくびもお調子も諦観も。
2017-5-22
きのう第68回みえ県展の二日目を見に行った。その日だけは無料で入場できた。会場入口で冊子とアンケート用紙を渡される。各部門からそれぞれ好きな一点を選ぶようにとのことだが、受賞作品は対象外だという。これがむずかしい。全部門で選ばなければ失格となっているのに、空欄で出す人も多かった。
2017-5-11
「ひとに聞けば済む話」 春はいつのまにか訪れ足早に去る。春の残り香のあるうちに、自分の探索を待たずに、西池の隣の例の森には重機が入っていた。開発されるみたいだ。躊躇というに値しない、いくらかの立ちくらみのうちに、ひとに先にやられてしまった。これまでの人生のいろんな場面に似ている。
2017-5-8
★温泉に入ろうとして脱衣所まで来たが、服を脱ぎかけて取りやめた。タブレットを脱衣ロッカーに置き忘れたと思い引き返して次々と開けてみるが、現れたのは、黒い表紙の文集、吊るされた片側の古い革靴、不動産関連のプレゼン資料。そのうち、忘れたのはタブレットではなくスマホだったと思い直した。
2017-5-8
大衆を侮辱するのは敗者の証。勝者は大衆を持ち上げる。大衆は持ち上げられたその位置から己を侮辱した敗者を見下すことができる。そう仕向けられている。「国民は馬鹿じゃありません。いざとなれば生活に根ざした現実的な判断をちゃんと下しますよ。机上の空論を振りかざす学者先生たちとは大違いだ」
2017-4-22
お伊勢さん菓子博初日の帰り、福島県の170キロの饅頭を切り分けていただいたものを実家に持参すると、母が出るや自分の顔を見て驚いていた。「あんたいま伊勢とちゃうのか」昼過ぎにお菓子の匠工芸館でテレビ朝日のインタビューを受けた映像が、夕方流れていたらしい。生中継と勘違いしていたのだ。
2017-4-21
★すっかり年を取ったかつての同級生らが雛壇に並ぶ。きっと彼女がいるはずだと順に探していた。彼女は前に進み出ると自分に何度かキスした。それがおしまいの合図に思え焦った自分は、彼女の手を引き脇の暗い路地に入った。町内を一周して元の位置に戻るこの路地を、どちらの向きで回るか迷っている。
2017-4-8
平凡さで一等賞を獲っても、それは非凡にはならない。愚劣さで抜きん出ても、それは愚劣以外の何者でもない。言葉は注意深く使われてきた。それを生業とし多くの読者を得てきた奇才が、前をおっぴろげて、まさかのへそ踊り。だれも笑わん。ワルの何が悪いって? 別に何も破壊してないし。残念なだけ。
2017-4-4
忖度するという内心は、どこの国にもあるが、言葉としてはないらしい。あっても滅多に使わない。しかし言葉として多用される国では、「例のアレ」というパッケージの形で人の間で流通する。
●忖度しなきゃ
●忖度するだろう
●忖度させなきゃ
内心であったものが、他人の心にかかわるようになる。
2017-3-28
合格者番号で使われた数字の色やフォントなど、だれも気にしない。愛しいその数字が、あるのかないのか。それだけ。ホームページ制作でも、もっとも重視すべきは、どう表現するかよりも何を伝えるのかということ。グーグルなどの検索ロボットでも、文字情報としての価値を評価の対象としているという。
2017-3-28
読むに堪えないのは、取扱説明書とその但し書きである。妖魔の世界の秩序とか、心を病んだ少女の独白とか。そんなものを小説に練り込んではいけない。文章が説明に終始するから、ああそうですかと退屈な一読で終わる。読書とは、魂の罹患にも似た、読み手ごとの解釈による酩酊であれかしと願っている。
2017-3-23
ピーター(池畑慎之介)、由紀さおり、前川清、五木ひろし、森進一よりも、北野武の方が年上なのが意外だ(敬称略)。子どもだった昭和四十年代半ばから活躍していた人たちと、十年遅れてブレイクした人との違いなのか。自分にとってその十年は、いままでのどの区切りよりも、きっと長かったのだろう。
2017-3-16
人物の異様さを描きたいなら、その内面から発してはいけない。異様さの描写は、外から探って得た誤解に依るからこそ生きるのだ。内部なら正常でしかない。自分はモンスターだと喚く人間の、どこがおもしろいのかというのと同じ。「あいつはああ見えて曲者だ」だからこそ、誤解が生まれドラマが始まる。
2017-3-16
高校生である知花の視線で書くとき、「高校生だし、酒を飲みつけているわけでもなかったが、まったく飲んだことがないわけでもない。ビールはあんまり……」など、不自然というより、文章の稚拙を感じる。「高校生だし、」が文全体を殺している。「知花は酒の味を知っている。……」ではあかんのかい。
2017-3-16
「知らなかった、と呟いたあと、知花はしばらく動揺した様子で(中略)もう一度棺の中をのぞき、ばいばい、じいちゃん、と心のなかで呟き(中略)一日出の方をちらりと見てホールを出て行った。」なんなのだこの文章は。「動揺した様子・出て行った」という外観と心内の呟きが一行の中で同居している。
2017-1-29
さる八日、石渡信一郎、泉下を訪われた。快刀で乱麻を断つ手法は、氏を失った地上においても、こんごもあらゆる知性を喚起するものと確信する。歴史学は過去に生じた事実を解き明かす実学であり、それをひもとくときに生えているバイアスや不遜は排除されるべきである。私淑していた。残念でならない。
2017-1-21
文章にできるほど、いまが不満なわけじゃない。ノスタルジックなイラストを見ると死にたくなると書いた人がいた。絵が過去と交じりあい、そのころに戻りたいような(そんな場所はないのに)、過去をリセットしたいような(似たり寄ったりの人生だろうに)。そうさせるそれは文芸に通ずる。絵を借りる。
2017-1-21
妥協は「同情」と同じく禁止動作の代名詞。堕落した建前との扱い。マスコミやSNSから発信されたことばが塵芥のように降り積もり、塵芥以外のものになる。本来の意味を表すのに別名がいると思うほど。妥協はあらゆる過程で求められる判断で、観念なら別段、これがないとモノやサービスが成立しない。
2017-1-19
ドナルド・トランプもマザー・テレサも歴史にその名を残すだろうが、その業績は冨とは異なる種類のものなのだ。──コリン・ターナー『あなたに奇跡を起こすやさしい100の方法』(早野依子訳)32ページ目。1999年1月21日第1版第1刷PHP研究所発行。18年後にふたつ目も現実になった。
2017-1-13
ふたりの男が山で熊に出会った。Aは神に祈り、Bは靴紐を結び直した。Aが「足の速さでは熊に勝てないよ」と言うと、Bは答えて「君より速く走れればそれでいい」。目的は「目的」とは別にある。うちテレビは見ないが、久しぶりのムービー+で「イミテーション・ゲーム」。副題のエニグマに惹かれた。
2017-1-11
歴史学が、過去に何が起き人がどう行動したのかを研究する学問であるなら、それが描く長大な物語は、科学的な手法による気まぐれな検証にも耐えるものでなければならない。科学には他人性があり自分自身の誤りをも検出できる。他流試合を禁じ身内だけで修業と宴会を繰り返すよりも得るものがあるはず。
2017-1-11
「ハッピー・バースデイ」僕の父がいった。彼は外套のポケットから一冊の本を取り出して僕に渡した。この四十七文字は自分にとっていちばんの贈り物になる。いちばんの贈り物にしたい。そうするもしないも自分が決めること。礼は言わん。ことばで礼にはしない。最高の教えであったという証明がしたい。
2017-1-11
ことばを使って読み手に感動を与え、それまでの読者を別の人間に置き換え、それまでとは別の世界を作り出してしまうものは、すべて小説といえます。それを脇で聞いていた詩人は、マスクをしたまま腰を浮かす。ことばを使って詩人に勝つことなどできはしないが、彼が無言のままであるという予感がある。
2017-1-9
高橋源一郎「小説教室」。同種のどのものよりも卓越してよかった。読んでは素人に金棒ともならないところが、あたかも仏教(禅宗かな)の何かと通底するような。百人を真似れば、だれの真似にもならない。内容とは別段、物事を引き寄せるためには行動することが大切だと思い知った。有益な体験でした。