小泉政権からこちら、議員が過去の言動を糾弾されるような場面で、返答に窮すると思いきや、逆に「○○するのは当然」と言い放つのを多く耳にする。以前はたいてい「配慮に欠ける点があった」などと釈明していた。これは反省の素振りよりも泰然とするほうが大衆受けをすることを知っているからだろう。
健康のためあらばと、生姜紅茶を飲んでいる。スライスした生姜を蒸し、天日で干して粉末に。ショウガオールの凄まじい香りが立つ。健康のためあらばと、路地を闊歩している。と時折、あの生姜の香りが漂ってくる。はて、自分と同じ習慣があるのかしらと気分をよくしていたら、春の便り、沈丁花だった。
★大釜のある竈のぐるりには、数名の女性が意味もなく坐り込み、年をとっていた。そのひとりが、あんたがまたここに来ると思ってたよ、という意味のことを言った。自分は、いつものやつ、といったふうに注文した。いつものやつ、が何かは忘れてしまっていたが、老婆のためにもそんな素振りは見せない。
★東京の表層はすっかり変わったが、見覚えのある路地も残っていた。そういうところが東京の良さだと思った。路地を歩くうち、当時も同じように過去の東京を思い出していたことに気づく。それは、路地の突き当たりで左に折れる角に、古くから居座る大釜を設えた竈で、現存していたことが自慢に思えた。
吉野源三郎「君たちはどう生きるか」。いまはマンガ版も出ている。初出は昭和十二年。読者として想定した、当時十五歳の男子(数年後の太平洋戦争に駆り出された世代)は、もう死んでいる。後半、ナポレオン賞賛の行間に軍国の愚かさの示唆がある。真に書きたかったのは、ギリシャ文明の東征の事実か。
AIによる不老不死。──わたしの肉体がなくなっても心は残しておいて。無茶をお言いでないよ。ところが、そうばかりでもなくなってきたらしい。クラウドに上げてネットで共有。AIによって青白く成熟し、あるいは渋く老成るとか。十年前に癌で他界した父親と進路の件で相談、などが可能になるのか。
横浜のTよ。おれは安定した。体重は11kg減ののち底を打ち、二十歳の値に戻る。血圧の代表値は、朝・晩ともに 106/64。先日、ハゼバアと買い物したさいに燕麦を買った。これはオートミール、カラス麦と称す。子どものころ、畦道沿いで蹴飛ばして歩いていたあの雑草と同属の植物を、いま、ありがたく。
もし遺伝がその語意、本来の意味するとおりに作用したものなら、折衷を繰り返して、みんな似たり寄ったりの顔になるだろう。つまり遺伝とは、遺伝するという現象と、遺伝しないという現象を同時に指し示す語である。他にも退化も進化の意を含むという。命って不思議だなあ。S鳥居角瓶のCMではないが。
どうして車のドライバーは愚鈍に映るのか。止まろうが運転しようが、時間当たりの処理能力は変わりがなかろうに、路傍の者からすれば、相対的な移動の単位長あたりに捌く能力の程度の方が切実で、たとえば十メートルを進む間にほとんど何もできない運転者という存在は、知的水準が低く見えるのだろう。
「改竄」の二文字を「書き換え」と書き改めたのか。財務省「森友文書 書き換え」という新聞のタイトル。いつのまにか、言葉がすり替わっている。「改竄」は常用漢字ではないため、「改ざん」と平仮名にする必要があり、紙面でのインパクトは強い。忖度とは、新聞社においても、もはや「配慮」並みか。
哲学者は言う。私の話を聞いて頷いているようでは真理に達するにはおぼつかない。同じく、まことの開祖は、一番弟子をクビにして、ひとり市井に生きるのだろう。宗教という形は畢竟、追従者が練り上げた雛形にすぎない。クビになった弟子の、内から生じることばが、彼ら自身をも市井に向かわせるのだ
I LOVE NOWHERE I'D EVER BEEN.
ウォーキングの途中では、視界には入るものの、目の前を行き交う人や車には興味を持てない。小刻みに揺れながら遠くの景色や雲を見ている。そうしてかつて自分のいなかった、何らかのはずみでいたかもしれなかった世界を夢想している。この時間を持てるのがしあわせだ。