開業医らの診察、処方箋、紹介(○×先生御侍史w)で、えらい目に遭わされているのは嫁であって、じつは私ではない。しかし嫁は嫁で、三つにひとつくらいは面白がっているふうがあって、あちこちでしゃべりまくるので、それはもう単独クチコミ。人様の耳には医者らの無茶苦茶な物言いが受けるらしい。
これは忖度だな。そう思った。体重計が教えてくれる、体内年齢(体年齢)という、得体の知れない数値。44歳とは若い。と思いきや、嫁も41歳で、しゃくにさわる。オムロンではもっと若く出るらしい。それに嫁の内臓脂肪率がたった3%などと、そんなことがありうるのか。開けて見たことはないけど。
★居間で石原某が勝手にたばこを吸いだしたので、やむなくいくつかあったうちの大きくて小汚い灰皿を出してみると、当人は何かぶつぶつ言い始めた。この部屋には町田某もいたが思いのほか影が薄かった。彼ならやってくれるだろうという期待があったのだが、安楽した普通の生活者の域を出ていなかった。
泥縄とは、事が起こってからあわてて対策を立てるの意らしい。自分はいままで、泥棒のなった縄でその泥棒当人を捕らえる愚のことだと思っていた。鰹節の見張り役に猫を採用するみたいに。いくら誠実に仕事を遂行するという言質を取っても詮無いことという戒めかと。むしろこちらのほうが実害が大きい。
ジャーナリズムの正念場。いまどきの鴨が背負っているのは毒ネギかも。うかつに鍋にできない。火事見舞いのようによちよち歩くそいつが自爆鴨かどうかの見極めを。きょう、本に付録の吉本隆明の講演CDを聞いた。対峙するふたつの概念がよく出る。ではあるが編集の糸井重里さん、ちょっと気が短かすぎ。
彼女の名前を忘れるなんて。待って。膝に置いた本のタイトル以外を指で隠して、いま彼女を思い出すから。ローラ。違う。アン。違う。エイミー! ちらりと「エ」が見えてしまったから。じゃあエイミー。エイミー・ジョーンズ。それで満足? 違う! そう、エイミー・ベンダー。燃えるスカートの少女。
町田康『夫婦茶碗』読了。この前後の作品がいい。作家による芥川賞受賞作『きれぎれ』よりも数段上だと思う。『夫婦茶碗』はその数年前の作だけに、いわば代表選手選考会に持ち込まれた昔の大記録との扱いとなったか。感動した自分はしかるのち、似せたコンセプトの小説を書こうと考えた。考えている。
記紀すなわち日本書紀や古事記は嘘だらけ。まだら嘘が霜降りのように練り込まれている。同様に公務員も嘘を言うので、真相を知るにはパズルを解く才覚が必要になるが、嘘が混じっているという事実は解明のヒントにはなる。「つじつまが合う」とか「手がかりが得られた」とか、遺跡の発掘現場のようだ。
ほかの地域のことはともかく。ご当地における開業医の程度の低さには辟易する。人間が使うまともな口が利けないとみた。日本語を知らないのか。よって診断が意味不明。一方で薬剤師の意見はこき下ろす。こんな方たちを前に胸襟を開く気など起こらない。かしこい医者もいるに違いない。違いなかろうに。
スピードは阿呆の素。 歩行者と自動車の接触事故は、すわなち両者の距離が零になることをもって成立するため、それを避けるためには時間よりも空間が重大な意味をもつのだが、ドライバーの側は単位長あたりの処理能力が極めて低いため猪突猛進の連続業。そりゃ無能にしか見えない。よって題意の如し。
挙句は「清めの塩」か。「清め」は「清目」に通じる。大八島の西半分で千年続いた触穢思想は、人の心に根深く張り巡らされ、結句、人がそこにいなくても、列島の土に、風に、水に、染み付いているかのように振舞う。うわべで隠蔽するも、色をなして抗弁する内心を想像するに、単なる慣習とは言い難い。
土俵に上った救命女性に下りろとアナウンスしたことを紙面で問題提起か。しかし、「女人禁制は『伝統』だが『救命』など『重大』な局面においては例外とすべき」のように、両性間の差別の問題を、伝統と救命との優先順位の問題にすり替えているように見える。差別解消よりも『重大』が重大なのだろう。
善人や悪人の話ではない。事故が起こってはじめて自分が何を為すべきだったのかに気づくという順番を、多くの人も知らずに腹に仕舞い込んでいるのだろう。自分はそうだった。それまで事故がなかったことを幸運などと名付けていた。運や不運は、都度、未来に向かっては意味を持たない。再現ができない。
信号のない横断歩道が運転者にとっていかに恐ろしい存在であるか、多くのひとが気づいていないように見える。信号無視をしたわけでもないのに、このゼブラの上での人身事故では全責任が被さる。なのに過失割合がああだこうだと眠たい話で盛り上がる。審判するのは判事であって家族や飲み仲間ではない。
高橋源一郎は泣いていた。きょうのラジオで、アーサー・ビナードの書いた「知らなかった、ぼくらの戦争」についてのコメントをしている最中に、涙声になったので驚いた。その頬も乾かぬうちに、関東地方の地震の速報が割って入り、終了。畏れながら、氏とは共通点がある。B型と大学除籍と東大不合格。
おとといまで知らなかった「歩きながら書かれた……」で思い出した。俺よ、ことしは「一年の初めに歩きながら一年の計を考えた」のだったろう。坩堝の底に残ったワードは「脱大衆」だったはず。時の後先があるので、ニーチェの言葉うんぬんで逃れることはできない。それがお前の本性。衒いのない本性。
吉本隆明の「真贋」の中に、ニーチェの残した「歩きながら書かれた文章でなければ読む気がしない」という言葉が出てくる。これを字面どおりに解釈して、「歩きながら文章は書けない。ゆえにこれは過去のすべての文献への打擲なのだ」とひとり納得する俺よ。多数派は高邁でいらっしゃるので歯が立たん。
虚無僧の笛や門付けを聞こうが、頼みもしないのに勝手にやっていること、料金を強要されるいわれはない。一方、ソンタク放送局はネット配信で料金を徴収するという。そのうち忠国ビラをまいてビラ撒き料、街宣車で国民訓話を流して街宣料か。ソンタクからは卒業しましたと、胸を反らす姿が目に浮かぶ。
映画「イミテーション・ゲーム」の中にある小咄。ふたりの男が山で熊に出会った。Aは神に祈り、Bは靴紐を結び直した。Aが「熊からは逃げ切れないよ」と言うと、Bは答えて「君より速く走れればそれでいい」。競争社会を端的に言い表している。熊とは何か。ふたりが無事に逃げ切ってはいけない相手。
三月二十四日朝六時、星の形をした氷が朝日の中で溶けはじめた。ぼくはそれを残そうとして、水を払い、丸くなった端を研いでみたのだけど、星は、ますます小さくなった。朝日の中で枕元に残ったものは、いくらかの水と、あの形だったという記憶。一日が長くなってきた。きょうも知らないだれかの命日。