マスクを取ったあとは、どんな顔つきをすればいいのだろう。いやさ、マスクを付けていた自分はどんな口元をしていたのだろう。自意識は加齢によってですら磨り減ることはない。ひとり海岸堤防の上を散歩しているときのような、人の視界に入ることのない場面でも、自分は自分の姿かたちを心配している。
物語の中の物語、プロットが入れ子になったいわゆる作中作は、本体よりも美しく光る。そう信じて、階層の多い作品を書いたことがある。層のひとつひとつは浅いが、階層構造は四層になっていた。書いているときは楽しいが、読めたものではない。それは数年後にも読者となった自分自身が知ることになる。
夢の跡地で晩秋の汗をぬぐう。アインシュタインはおっしゃった。空間と時間は対等であると。あの時分のスキャンダラスな記事よりも、ずっと覚えている。時空の中で、いま日向と自分を隔てるものは時間のみ。だけど先生、どうにもならないんだよ。汗はすぐに乾く。残酷な時間に、感謝し、安堵し、泣く。
(1)遵法速度は追い越しを招き危険だという詭弁と同じで論外
(2)一時停止義務には後続車の有無は関与しない
(3)分からないのなら通過するという判断はしてはならない
これが理由だとして回答する人たちが1トンもの重量物を動かしているのだ。
三重県では一時停止率が1.4%ときわめて低い。
★平和な島の暮らしに、武装した組織が現れ、空港を乗っ取ってしまった。強権的に増長し、住民を次々と拘束し始めた。残された自分たち有志は、手練手管で組織を壊滅に追い込んだのち、いつしか自身が独裁者になっていた。民主を保全するため自害を考え、同僚に拳銃で眉間を撃たせるも失敗に終わった。
★日向は食事は共にせず帰るという。支度に羽織った檜皮色のコート姿が悲しかった。あすは勤務先(養護学校か)の運動会で来られないとも。車の外から見た、昔と変らない顔の中にも年齢を感じた。雨が降っていた。後ろから差してくれた家内の雨傘の先を少し上げて見送った。午前五時半。東の空が赤い。
皇籍を離れるさいの一億円の支度金の理由は「品位を保つため」。いったいだれがこんな言葉を口にしたのか。お金で品位は買えない。人柄のみが品位を保つ。おとなのくせに、そんなこともわからないのか。それが世の実態に近似の表現だとでも思ったのか。近似的だと侮るいやらしさが、お里を知らしめる。
ニュアンス(微妙な差異→意味合い)、喫緊の(大切な→差し迫った)、慇懃無礼(上面だけの礼儀→礼儀が過ぎて逆効果)。たいていの場合、あとのほうの意味で使われている。もう誤用とまではいえないらしい。だけど、確信犯(信念に基づく行為→悪事だと知りながらする行為)などは、誤りとすべきだ。
★真似事の動作が真似事でなくなる刹那がある。日向との、くちびるを窄めた、シャチハタ同士のような、真正面からのキス。教室の真ん中で。二度、そして三度目は不明。十五歳に戻っている。でも、そんな戻り先は存在しなかった。きっと自分は日向との関係を求めない。ぎこちない、当を得ないキスのみ。
職務質問は久しぶり。深夜のウォーキングの帰り道、家まで二百メートルのところで、三名の制服に囲まれた。黒ずくめの不審者の情報が入ったのだという。かねてより警察には言いたいことがあったのだが、奴さん等は、不審者が不審者がの一点張りで聞く耳を持たない。きょうは二万歩。十分間の休憩つき。
最近、ぐうぜんに窪田順生さんというノンフィクションライターがいることを知った。ITmediaというサイトの「スピン経済の歩き方」というコーナーで記事を書いている。読んでいると、共感できる部分が多く、爽快感に満たされる。自己肯定感や追認がもたらす快感。それは危険の始まりとも言える。
裁判官という仕事はつまらん。わが邦家のあらゆる職業人のうち、期待されるスキルと成果物との隔たりが最も大きいのは、裁判官ではないかと思う。この職業に向けては「(正義を)期待しなければならないが期待してはいけない」という自家撞着が群を抜く。医者さんも大概なものだけど、それにも増して。
動物にしろ植物にしろ、可食部分を独自に定義し砕いて再整形したもの(練り製品、飲料、麺類、パン、和洋菓子など、要するに粉モン)は控えようと思っている。これらは製造過程で大がかりな加工を受けるため、失うものが大きい。食品会社の言いなりで、しかもおいしい。できれば原形を食らいつきたい。
散歩の道すがら、コースをちょっと変えてみると、田んぼの脇で彼岸花が西日を浴びて妖しく固まっているのが目に入る。何かたくらんでいるようでもあり、健気に肩を寄せ合って秋の彼岸を寿いでいるようでもある。いつかその色が枯れてなくなったときに、自分は気づくだろうか。あす日向と同い年になる。
己の行動の指針は、(A)自分の利益になるもの、から、(B)他人の迷惑になるもの、を省いたものとする。「日傘を差して散歩する」は、A∩!Bだから○。「裸で散歩する」は、A∩Bで×。「歌いながらで散歩する」は、!Aで×。世に違法なA∩!Bは存在しうる。愚かに生きることは罪なのだろう。
読者は、小説の中で自分の居場所を求めている。どこにいるのか、作者には気づかないけど。校舎の角からのぞいていたり、登場人物の斜め後にいて聞き耳を立てていたり、語り手の指差す方角をいっしょに見上げて頷いたりしている。俺よ。読者の得る印象を軽んじてはならない。その人は主役の一部なのだ。
青山七恵『お別れの音』。六篇からなる短篇集。あの「役立たず」を五番目に含んでいたので期待は大きかったが、回収率は半分程度。この人は長篇のほうが向いているのかも。ただ、男性目線で語る「役立たず」は際立つ。キーパーソンである弥生のことを、おそらく自分は知っている。切なく、しかし快感。
石井遊佳『百年泥』。ストーリーの巧みさは「きれぎれ」風。リアルとファンタジーの渾然一体。文学女史が起草したような冷笑的な比喩や修辞は後味がくどい。かつて僕たちは、流行が廃れることを『絶滅』と呼んだり、先輩OLからの誘いを断ることを『避難』と称したりしておもしろがったものだったが。
若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』。おひとりさま入門講座みたいであるが、経験した者が得る心情があるらしい。主人公桃子さんに二人三脚で寄り添うことはせず、将棋の駒を箸でつまんで指しているような潔さも。もっとも、非該当の人間にとってみると、さほど心を奪われたりはしないのではと思う。
看護婦という単語はタブーとされ、使えない。東京オリンピック、と発言したあとは、「・パラリンピック」と続けなければ放送界から締め出される。ふたつが前後することも許されない。「女男共同参画」という語を使えないのと同じ。差別解消のためには、繰り返される形式という外観は大切だけど、重い。