バナナを半分こしたら、そのどちらも半分よりも小さく見える不思議。奇人変人でも一人称で作文をさせたら常識的なことを書く不思議。飲み屋の女将やバーテンダーが解決のヒントを口にする刑事ドラマの不思議。芸能人はみな温泉と生食を好む不思議。話はピントを少し外したほうが聞いてもらえる不思議。
★その日、中学校の午後は南方面で催されるイベントの見学とかで、クラスメートは浮き浮きしていたが、みんなで四時間目をさぼってまでして行くことはないのにとも思った。自分以外で残ったのはI君と、よく絡んでくるTさんという女子のみ。そのうち、イベント自体が死を意味することがわかってきた。
ドラえもんの珍妙。もしそれが現実にある世なら、「タケコプター」とか「どこでもドア」とは呼ばれていないだろう。自動車が車と縮められたように、インターネットもネットと呼ばれるようになった。身近になった新顔からは形容する語が消される運命なのだ。いまに、通貨といえば仮想通貨の意となるか。
キラ星(きらぼし)。間髪(かんぱつ)。習い性(ならいしょう)。鬼面人(きめんじん)。きら、ほし。かん、はつ。ならい、せい。きめん、ひと──。星・髪・性・人・といったありふれたものと形容する語と合体させて異形を示したいのか。濁音や半濁音、拗音は、口に馴染むので、つい使いそうになる。
知りたくもない情報が、どう自分に届けられるのか。いちばん遅くまで知らない者になろうと考えた。うちにはテレビがないし職場や友だちづきあいにも縁はない。田舎ゆえ号外の声も電光掲示板もない。けさ、嫁が新聞の表を上にして床に投げたので、でかいゴチックが居間に踊った。赤紙ならどう届くのか。
外食には、味付けや舌触りのためにか、糖分、塩分、脂質がたいそう練りこまれていて、自分にはどれもおいしく感じる。不快そうに味付けを語る人の舌が知れない。ファストフードもスーパーのお弁当も然り。ゆえに「糖・塩・脂」には気をつけないと摂り過ぎになる。拒否ではなく少しはいただきますけど。
──もううんざりだわ。うんざりだと言われることがらのほとんどが、うんざりだなどとは言っていられないという事実。すなわち、「うんざり」とは「おとなの対応」と同じく権力側発の茶坊主マスコミ用語。村を二分する論争や公務員の不祥事方面に使われる。実体を合言葉に吸収させて骨抜きにする腹か。
いじめられっこのA君は、いつも同級生のかばん持ちをさせられていた。ある日、彼は最強のモバイルスーツを手に入れた。身に付けると人間離れした筋力が得られる。喜んだA君いわく「これでカバン持ちも楽になる」。自動車よりも最速の馬車をほしがった。戦争や公害を思うとき、それもひとつの考え方。
鉄道って必要なんだろうか。踏切のような専用信号を持つ連結したバスではいけないのか。都道府県って必要なんだろうか。州と市では不十分なのか。物心ついたときに見たありようを肯定しているだけなのでは? 鉄道は、いまでは存続を求められているけど、はじめのころは、各地で敷設に反対されていた。
きょうの午後一時、となりの一色区の集会所に岡田克也さんと杉本ゆやさんが来た。前から頼まれていたので家族三人で見に行った。雨だったが、集会所には立ち見が出ないという程度には人が入った。岡田氏を間近で見るのは初めて。標準語に四日市あたりの言葉を交えて、さほど辛らつでもない現政権批判。
Y市のTへ。きょう(きのう)、赤い靴の女の子が届いた。アマゾンの巨大な箱の中の、おしゃれな袋の中の、おしゃれな白い箱の中の、おしゃれな個包装の中の、白いペーストをサンドした、ちいさな甘い壁。三つの舌を幸せにしてくれた。きょうも、君の幸せを願う。仕事は楽しいかめ? 魚はうまいかめ?
目下はやりの、マスコミも指揮の片棒を担ぐ「見える化」という局所的大合唱も、「視覚障碍者への配慮不足」というワードが放たれるなり、時を移さず意気消沈の憂き目をみるのだろう。もっとも、押し合いへし合いの集団の中でメダカのごとく一斉に動くのも、それら業界界隈の人間の習性のようにも思う。
散歩の途中、県警本部の守衛さんにトイレの場所を聞く。不審顔がすぐに溶けて、あどうぞ中にありますから。人は全人類共通の話題には頬も緩むものかと、ひとり微笑む。ところが建物に入ると制服が張り付いてくる。あの守衛さん、ちゃんと連絡してた。中高年男一名、所持品なし、トイレを借りる由、か。
吉田眼科の診察券に鋏をいれました。ひとは目だけで生きているのではなく、プライドを傍らに添えているものです。わたしは利己心のある人間なので、自分がかかわりを持たなくなればじゅうぶんです。わたしの目を見据えて患者の心も診てくださった、歯科医と内科医の先生おふたりには感謝申しあげます。
小径で生まれ、酒席で死ぬ。このわけのわからないもの。四十八年前のさびしい通りに立ち昇ったものが、いま、笑いと自嘲の交差する煙の中で、しずかに鼓動を止める。おれは何を期待していたのだろう。おれは何も期待しない。希望とは、己の作り出す頑迷な希であって、期待などされるものではないから。
コーヒーを満たしたマグカップを左手に階段をそろそろ登っているとき。スリッパがちょいと段差の端っこに引っかかり、コーヒーが波打ち床にこぼれた。と見えたので、拭き取ろうと腰をかがめると、それは前に落とした雫の乾いた痕だった。同じ場所で同じ動作の同じ失敗だが、おれは確実に進化している。
セカンドオピニオン先として求めた歯科医(口腔外科)のアドバイスで方針が決まり、一週間後に抜歯などから治療が始まる。健康保険が利くし、費用もさほどかからないとおっしゃる。二十数年ぶりにお会いした先生、太って見えた。「先生、少し肥えたね」と看護師にささやくと、微小な笑みが返ってきた。
三十数年前に前歯として施してもらった差し歯が、ここ最近、ぐらぐらして抜けそうになっている。歯科医に相談するも、措置はむずかしいようだ。幼児のころのような、前歯を欠いたままの新しい人生を考えてみるが、都合が悪い(似合わない)気もする。セカンドオピニオンを申し出ると快諾され、悲しい。
食品生産は成熟産業であり、上げ底文化の性格を保持してきた。カロリー表記(製品が百グラム以下の場合はそれ自体の、超えれば百グラムあたりを表記して少なく見せかける)や、ナトリウムの重量表記(食塩のそれに比べ4割になる)、内容量を減らしておいて「同価格・低カロリー」などと誤認に期待か。
諏訪哲史『スットン経』中日新聞コラムに違和感。差別の定義は、生物科学に基づくのではなく、社会科学的に行うことが妥当でしょう。ある一定の範囲を越えたものだけを差別的態度とみなすということ。人間が潜在的に持つものは取り上げない。この範囲の定めるものが、のちに文化のリストに加わるのだ。