少数の知識層からの蔑みがあっても、勢いにほだされた馬鹿の票が入ればいいとする態度が、いよいよ顕著になってきている。見下されても金が入れば、金目のものが転がり込めばそれでいい。それは娼婦の打算。ごみを資源と評価する行為とは似て非なるもの。政治家がそれをやるから「恥を知りなさい」だ。
自分は、どの神も信じてはいないが、超越的な存在は意識することがある。それは『時間』です。水の次の一滴を垂らすにも時間がかかるし、宇宙の生成にも素粒子同士の結合にも時間は関与する。時間はあらゆる現象を支配下に置くように見えるが、じっさいは中心のない円周に並ぶ要素のひとつなのだろう。
今村夏子『こちらあみ子』読了。とてつもない書き手だと思っていたら、居間のラジオから声がして『むらさきのスカートの女』で第161回芥川賞を受賞したと言う。そのあと、ウィキペディアで「……あみ子」はデビュー作だったと知る。驚きとため息にいとまがない。手許にもう一冊、『星の子』がある。
「B型のひとって、型にはめられるのが嫌いなんだってね」「え、おれ、B型だけど。型にはめられるの大好きだよ」「あ、やっぱり」。自己言及のパラドックス。例の「本法ハ国有地ニ之ヲ適用セズ」のあれ。「文章にとって副詞はしばしば有害である」という自己言及的な文からも副詞の有害が実感できる。
名言だって? いくつかの単語を寄せ集めて他人の人生を語るという発想と度胸は買うけど。自分自身にとって、自己肯定感を得ることなど造作もないことです。人の目が遮断された場所で、善だと思える行動をとることです。いま自分のことを書きました。人のことはわかりません。わかる御仁もあるらしい。
『超訳ニーチェの言葉』白取春彦・訳。十年前の本で、ブックオフで百円でした。嫁が卓袱台で前かがみになり、むさぼるように頁をめくるのが気にかかる。こっちは風呂やトイレでの手置き用に買い求めただけなのに。超訳なので今風。スマホ依存とか出てきそうな。神は死んだと叫んだ人の声は低くも重い。
村上春樹『騎士団長殺し第1部顕れるイデア編』とりあえず300ページまで読んで途中感想。身辺雑記に映る括弧書き。意味ありげに振舞う傍点。「まるで……みたいに。」を繰り返す直喩。意図してか、中学生に読まれることを意識したような大味な表現が随所にある。このあとのストーリーには期待する。
破砕した大麦の押し麦に同量の燕麦(ロールドオーツ)を混ぜ合わせ、合計30グラムとする。甘味に乾しぶどうや別にグラノーラをわずかに加える。これに豆乳と牛乳の混合液、60ccを注ぎ、合計100グラムを得る。冷凍しておいた玄米を溶かして混ぜることもある。毎食腹持ちがよく食物繊維が豊富。
通勤途上の車の運転は、傍で見ていても怖い。左様にルーチンは人間から考えることを奪うのだろう。勤め人がいつも同じ階でエレベータを降りて「おはようございます」と事務所のドアを開く。そんな毎朝の繰り返しとマイカー通勤を混同しないでほしい。この行為はその都度、危険な冒険に満ちているのだ。
井上章一『狂気と王権』。心療内科の待合室に置いてあったので、続きを図書館で借りて読んだ。二十年以上前に出た本だけど、この前の付属中学校での建造物侵入事件にも通じそう。筆者の癖なのだろう。検証を待つだの想像に過ぎないだの、言い訳が随所にある。後半は紙幅を増すためか、付け足しの印象。
日向初美。恋かなつかしさか後悔か安堵か。ピアノの鍵盤を押せば出る音のように、人の心はどれかに収束されますか。キーボードが提案する誤変換がいまいましい。ぼくは恋の話をしているんだよ。たしかに猿が書いている。だけど推敲するのは人だ。書けるのは朝方だから。見なかったきみの夢と朝露の内。
ひまわりは咲いていなかったけど、たしかに小道だった。待ち伏せていたわけじゃなかったから、ぐうぜんの出会いだった。六月の浜道は猫の口のにおいがした。それもあなたの中に生きてはいまい。三途の渡し守に胸を反らして告げたい記憶も、いまにぼくから抜ける。笑われた者だから、塚でも建ててくれ。
引き続き、小池真理子氏の文章を攻撃する。このひとの書いた文章の中に「足が少しもつれた」との一行がある。「少しもつれる」のは他人の足であって、自分の足なら「もつれる」ものだ。自意識はそう告げる。「少し」などと付け加えるのは、視点がぐらついていることを示す。副詞の有害は広範囲に及ぶ。
幻冬舎文庫『ミステリーの書き方』の517ページに、小池真理子氏の「引用例(D)『青山娼館』/角川文庫p.294」が載っている。ご当人が好例として選んだ自慢の比喩らしいが、ひどい文章であって、推敲する気持ちが抑えられない。で、じっさい推敲してみた。「ことばのちから」に掲載しました。
一日付けの新聞紙面など読めたものではない。各地で演出ではないふうに陶酔を装う演出に恐怖を感じる。元号が交替したところで、いったい何が新時代なのか。いったい何の幕開けなのか。政治、経済、法や商い、医理工に教育、その他、市民の行住坐臥に関与することはない。残るはブンカ。駆け込み寺か。
嫁が図書館で借りた、山野辺太郎「いつか深い穴に落ちるまで」。何かの受賞作らしいがタイトルが凡庸。前後を時間を表す語で挟まれた、深い→穴→落ちる、の意味的冗語の三拍子。メタボ体質のタイトル。「今朝がた穴ではなくなりまして」とかのほうがいいのでは。せっかくだから中身も読むことにする。
中日新聞紙上で鼎談だか、もう数名いたか。官邸への同紙記者の質問内容を巡って、論者のひとりである大学教授が、揚げ足取りを避けるために事前に質問内容を精査する必要がある旨述べ、これに対し魚住さんは、それでは質問などできないと反論していた。教授周辺にトーンポリシングが漂うが査定は困難。
トーンポリシングという語を知る。日本語でいうと「語調統制」に相当する。「目上に対してその言い方はなんだ」とか「まずは落ち着け」とかのあれ。敷衍されやすい概念で、使用には注意が必要であると思う。トーンポリシング・ファッショとの概念が口に上り、権勢のある側に加担するという懸念がある。
小谷野敦さんの嫌煙への厭悪は、「全国冷し中華愛好会」の趣かと思っていたが、ご当人は「嫌煙ファシズム」などと敵視している。でも、対象を特化するのもいいけど、真の敵はパターナリズムでしょう。人には愚行権があろうし、法に拠らずにそれらを多数で糾弾するファッショは、対喫煙に限っていない。
巷間ただよう官製楽観的気分を、わたくしに、GMO(government-manufactured optimism)と名付けた。いよいよかという朝が来ても、蒸発せずに居残るのではないかとも思う。とくに市民の公務員に対する、あの信頼感に満ちた言動には、うろたえる。本質的には、赤紙は発行する者よりも配る者が敵なのだ。