今村夏子『むらさきのスカートの女』。芥川賞受賞作。第百六十一回とは遅すぎる。いっぷう変わった人(当人から見るとまっとう)を描くことは今村さんの得意とするところ。奇妙な他者を書くことで、そのじつ、自己を書いている、という手法は、『こちらあみ子』に掲載の俊作『ピクニック』とは異なる。
タピオカ澱粉加工品という名の、森永製菓のラムネ菓子ふうの丸いやつの百グラム入りを買って、水につけておいた。それを数分間煮立てて冷水で冷やすと、表面がしっかりしてきて透明感があり、直径も態度もでかくなってきた。これを南国の果汁の中に落とし、微糖炭酸水を注いで自家製タピオカドリンク。
アリストテレスの名言「人は繰り返し行うことの集大成である。だから優秀さとは、ただ一度の行為でなく、習慣なのだ」そんな邦訳にするからわかりにくくなる。「優秀さは、一度きりの行為の中にではなく、習慣の中にある」あるいは「その人の美徳を揚げるなら、その人の習慣のなかから選ぶべきである」
梨木香歩『海うそ』。この人の作品は、前半に比べて後半がやや貧弱に思える。この手の話には定跡があるだろう。学習過程にたとえると、前半では授業本番のように十分な時間を割いて臨場感を持たせ、後半で復習のように引き締める。青春の記憶と、石化した遺物が、半世紀の時をはさんで往復するように。
台風19号の影響で五十鈴川の状態はどうなったのか。伊勢市楠部町あたりでは、たいへんなことになっているらしい。驚くほどの現場の光景とは裏腹に、新聞やウェブには「増水」とか「氾濫危険水位に」などという表現が並ぶ。どういうわけか、ほかの地域のように「越流」や「氾濫」とは書かれていない。
★日向初美は、長椅子にすわる僕の太ももの脇で半ば横になり、仕事のことを教えてくれた。福祉関係か何かの集団なのか、700名の中の30名を担当していると。声は元気そうだった。夢の中でも好きだと告げられない。ましてうつせみでなぞ。
などと思っていたら、21日付の中日新聞朝刊6面で、JTの全面広告があり、「嫌いな人をほめてみよう」というコピーが掲載されていた。無茶筋だが、パクられ感すらある。どんな人でも、その内面から発する声は印象とは似て非なる。嫌いな人とは、己が作り出した外装であり、自己ファッショなのだと。
2018年の元日に、あることを意識した。大衆的なものを脱しようと思った。いま、それらの人々を再定義するとき、面倒くさがること追加した。そこで自分への課題として、面倒という気持ちを捨てるようにしている。慎み深いこと。面倒を厭わないこと。あとひとつ。この短文投稿のはじめに書いたこと。
ラフマニノフ『ヴォカリーズ』を聴いて思った。恋は不条理で理解不能なものであると。そして、自分は知っている。日向初美に恋をしている。たとえ夢の中だけで動く少女であれ、いまもどこかで生きている六十代の女性であれ。過去は考えなくていい。人間は、いま想いをめぐらす未来にしか生きられない。
精神を鍛えたい。苦痛の中で精神的にそそり立ちたい。そのために何をするかは、じつにかんたんなことで、いちばん嫌いなひと、とくに芸能人、有名人、気持ち悪くて遠ざけたいと思っている人の気持ちを想像して代弁してみる。
隠喩とするため、鉤括弧を付ける。なぜ『公務員』は『教祖』にならないのか。それは彼が語尾を「だ」で終わらせずに「と思います」を追加するから。『思います人』にはだれも期待しない。大衆は信者であることが快感でたまらないのだから、言い切ってほしいと願っている。異形のまろうどを希っている。
子どもへの虐待や、あおり運転が増えたように伝わる。観測数や報道数の増加もあるだろうが、実数の増加もあるに違いない。それは連日マスコミで取り上げられているから。人でなしと言われようと凶暴だと誹られようと、前例がある、自分だけではないという認識は、日本人の行動への決定的な触媒となる。
若い人たちは、反撃の手段として「はぁ?」という言葉を手に入れた。すこぶる有効であると思う。日本人は同調を好み、孤立を嫌がる。あまつさえ他人にも強いる。こんなことをするのは自分だけだ、自分は的外れなことを言っている、共同浴場から出ようとしている。それを示唆する「はぁ」は、効果覿面。
野球は門外漢だが、「ノーヒットノーラン」が、打者の無力を論うのではなく、投手の褒め言葉として使われることがおかしい。ふつう「○○選手、ノーポイント」などといえば、対戦相手を無得点に抑えたことではなく、自身が無得点だったことを指すだろう。存命なら芦ヶ原伸之氏も同意されるに違いない。
八月二十八日、日向の夢を見た日から、髭を伸ばしている。自分は若いころから鼻の下側にはほとんど出ず、口元に固まった生え方をして汚らしかったので、いつも挫折していた。今度は本気でやる。鼻下の髭は口元の韜晦。自分から見た己の韜晦。しかし、鏡を見る回数が前よりも増え、自己への執着も増大。
思い返せば、磨り硝子は、先生と呼ばれるひとの周辺に多かった。先生を待っている。いる気配があるのに姿を現さない。戸の向こうから、おほんおほんと咳払いの音がする。百ワットの灯りの手前に人影が回ると、影が拡大されて磨り硝子を塗りつぶす。先生は準備中なのだ。醗酵して化けている最中なのだ。
磨り硝子(くもりガラス)を最近見なくなった。あれはどういう用途だったのか。外から光は入れたいが、内容は外に見せたくない。子ども時分の記憶だが、医院の調剤室と患者側、職員室と廊下など、不完全隠蔽が醗酵して生じる権威というものを臭わせたいときに、仕切りを口実として用いていたのだろう。
「面白がるよりも楽しめ」でも「楽しむよりも面白がれ」でも、えらく変わりはない。似たふたつを提示して、片方を否定し、他方を肯定すると、あたかも真実を語っているかのように振舞える。生徒の時分から「修学旅行は遊びではありません」と聞かされてきた。担任ではなく帯同される校長の台詞だった。
故加藤典洋さんは、一般的な書き物の作法を述べたのだろう。しかし、主人公と作家の分身である語り手についての関係は語り尽くされている。新人のデビュー作だから侮ったか。この作家は語り手を借りた読者への説明を意図的に省いている。「この主人公ったらねえ……」などと思わせるト書を省いている。