擬人化するつもりはないのだが、時計のやつめ。こちらがせっかく正しい時間を設定してやったのに、かたくなに口を結んで受け入れようとしない。穏やかにきちんとした敬語を教えてやったのに、盆を胸に、へーえ、と不貞腐れる仲居の所作である。逆に文字盤のほうを4分ずらそうか。それも大人気ないか。
安物の腕時計が止まったので、しばらく使っていない電波時計を出して左手に巻く。4分遅れている。電波時計は自分で時間を修正する機能があるのに何日たってもそのまま。やむなく手動で合わせてみたが、翌朝、元の4分遅れに戻っている。明石と津の地理的時差は4分。時計め、早まるとみて忖度したか。
カラス麦は枯れました。うちの庭はさほどに過酷な環境なのか、どうにもあかんらしい。落ちてなお、赤みを増す椿の花を、踏まずに歩くのはむずかしい。枯れた新参者の根元に紅を添えるのは、季節外れの気圧配置。自宅の西側五百メートル以内には、何もない。今度は成熟した種を拾ってためしてみようか。
人は人の目を気にする。都市部のことは知らないが、電車もポツリポツリとしか走らない田舎の夜半の踏切では、脇の歩行者など人目の勘定には入らないらしい。一時停止どころか、ブレーキも踏まずに突っ込むものだから、線路と木枠の隙間でタイヤが躍り上がって残念。「素直に行動する人」なのだろうか。
嫁がスーパーで買ってきたちくわ。ひと袋が97円の半額だったので実売は48円。ところが、ひと袋につき50ポイント(50円)が付いていたので実質はマイナス2円。値引きシール係とポイント付与係の担当部署が違うのでこうなったのか。嫁はいつか起きると思っていたらしい。今夜はカネテツ三昧か。
毎朝つけている体重と血圧に、きょうから体温を加えることにした。体重61.3、血圧98/62、体温35.8。国道沿いを散歩していると、わきの畑から堆肥が香るので、嗅覚は正常だろう。歩道との隙間にカラス麦を見つけてあったので、採取して庭に植えた。燕麦の仲間なので食べられないものかと。
ことしの流行語大賞の候補には、「濃厚接触」と「不要不急」を加えたい。どちらも何らかの意図とともに撒かれた言葉なのだろうけど、うまく人に拾ってもらい、マスクと同じくらい繰り返し口にされている。「スーパースプレッダー」だの「オーバーシュート」だの「ロックダウン」だの。くだらなさ過ぎ。
さしたる効用もないとされているのに、これほどマスクをしたがる理由。もはやそれは厄除けのお札を求める衝動に違いない。あるいは光圀の印籠、皮膚に描かれた経文、聖俗を分かつ結界。目に見えない恐怖に目に見える防御で備えたいと思うのは自然のなりゆき。有形のサプリに期待する心理と通底するか。
おととい、新型コロナウイルス対策として摂氏51度以上のお湯を飲むことが効果的だというチェーンメールが身内から回ってきたが、とてもそうは思えない。粘膜の内側と違って、消化器官内は位相幾何的には体外であって、熱い飲み物が効くというのは、熱いシャワーを浴びれば効くと言っているようなもの。
起草者の意図と実社会への援用を模索する法の解釈とは異なり、過去に生じた、変えられない事実を検証する歴史という分野では、矛盾する学説が並び立つこと自体がそもそもおかしい。唯一無二の真実を得るという目的のためには、相手の主張を徹底的に潰すという態度が、もはや義務なのではないかと思う。
耶蘇教の福音書に「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」とある。千三百年前、記紀の編纂を企てた支配者層が隠蔽した歴史が明るみに出るかもしれない。毎日新聞、奈良橿原考古学研が宇宙線ミューオンを使って箸墓古墳の内部を探る調査を実施と報道。
★F電の寮のベッドの上で目を覚ました。きょうからここで住み込みで働くことになるのだが、集合場所がわからない。さ迷い歩く工場構内は、通路も広場も、まるでお祭りイベントのような華やかさで、着飾った若い男女が行き交う。青空に抜ける音楽と若い女性の歓声。いい所で働けることを感謝している。
もしグレタさんが演説の中で、「よくは知らないですけど」とか、「生意気言ってすみません」、「わたし自身も他人のことは言えませんが」と付け足したら、たちまち信頼を失うだろう。己の防衛のために和らげられた言葉は聞く者の心に届かない。本邦では論戦を避ける調整役として尊ばれてきたのだろう。
★記憶なんてそんなものよ──。僕の左首筋に息がかかる。でもそれはおかしい。その時点で日向がそれを口にできるはずがない。こんな展開は、いままでに見聞きしたどの脚本とも違う。俺よ。お前は、あのときの自分の周りの世界が作り物だということを知りながら、記憶に追加するふりをしていたのだろう。
★抱きしめた拍子に、日向のインスリンの液がこぼれ、僕の手に降りかかった。インスリンは、ホルモンの一種だと聞いていた。僕はそれをくちびるに運び、ついで味を確かめてみた。このわずかな液体は、日向の体内に入らずに、僕のくちびるに触れているのだと思うと興奮した。ただの水のような味だった。
★中学校の教室にかつての同級生が集まった。その中に日向もいた。ぼくは何かの提案をして、みんなに受け入れられた。しばらくすると日向は大きな容器を取り出し、インスリンを打ち始めた。膵臓が破壊されているという。僕も糖尿病なのだ。そう告げると、人の目のある中、思い切って日向を抱きしめた。
ワンマン社長の決断は、役員たちが合議で出した結果よりも慎重で保守的なものになるという。独裁は責任を伴うが、衆議はしょせん割り勘だと知っている。中国当局と米政権では、後者のほうが無茶をやらかすような気がする。非民主的な手法で作られたインテリ集団には、大衆的な快哉の叫びは似合わない。
面倒くさがる態度は、スマートで知的に映るためか、多くの場面で準用されてきた。努力の成果よりも才能の開花、試行錯誤よりも幸運が絵になる。また、新しい技術は、手間の端折りにもつながる。でも自分は面倒を愚直に行う。個体が健康で生きるために、くふうを避けるという舵取りが必要になってきた。
わたしはこの夏、面倒を厭わないという考えをもった。面倒はいい匂いだ、と。それはほんの小さな事柄から始める。つま先で横にずらしていたものを、手で拾い上げる。手を使うことでより多く足の運動になる。心が肉を使う。自分がこの世に出たさいの借り物である以上、肉体は大切に使うべきだと知った。
ほかでも同様、キリスト教では信仰心は表に出すべきであると説いている。小狡いとも思うが、それが宗教の限界なのかもしれない。内心だけで食ってはいかれない。托鉢には成果という現物が期待される。では謙虚はどうだろうか。謙虚はこれ見よと表現すべき徳目なのか。ひとり密かに置くべきものなのか。