大きなお世話だ。手前の頭をどう守るかは手前が決める。パターナルなお節介は無用だ。四月一日より自転車に乗車するさいはヘルメットの着用が努力義務とされるという。公共放送では、自転車が加害側になるケースが多発しているとも告げていた。ならばメットの着用は歩行者の側に求めるべきではないか。
大きなお世話だ。私は意中の人を直接に選ぶ。パターナルなお節介は無用だ。公共放送でガーシー氏の除名問題に絡み、解説委員だかセンセイだかが、「今後は選ぶ前にどういう人物かよく考えてから投票するように」などとほたえていた。非民主国や香港みたいな「プレ選挙」を強いるつもりか。見識を疑う。
断捨離という言葉もそれを主宰する人物も好きにならない。ヨガ用語である断行・捨行・離行をパクったか。「捨」だけは自己中で「互いに捨てる」という言い方が成立しない。どうせならと「捨」を「謝」に替えた「断謝離(断ち謝し離れる)」を思いついたが、時すでに遅し。本のタイトルに使われていた。
★件の少女を見やると、わずかに首を左右に振る。自分と彼女の間だけの交信のように感じた。自分は教員たちに向かい「そんなもん知らん」と白を切った。少女とのやり取りの顛末をわざと口にし「……という話をでっち上げようとしているのだろう」と怒って見せた。少女を守るという使命感に満ちていた。
小さな偶然を重ねて通るたびに自転車こぎながら横目で見ていた。川沿いの開けた道路に面して広がる細長い庭と手作り風の平屋。日当たりのいい庭に老夫婦が出て、妻が夫に話しかけている。「何、食べたいの。何、口、動かすことがあるの」やさしい口調だった。妻と目が合った。12時15分。瑞祥あり。
首相に就いたとたん、「倍増とは言ったが『2倍』とは限らない」などという詭弁を、よりていねいな説明として平気で口にする。まさに一休さんの国。このような頓智話は、室町時代に実在した一休宗純とは無縁で、のちに作られたらしい。もし再臨すれば、自身の評価に声を失うとの予感はイエスも同じか。
きのう元旦の海岸堤防では、多数の人と車が行き交っていた。地元の神社では太鼓が鳴り、焚火を囲む人で混雑していた。二日の同時刻には人影はゼロ。人や車の消え方が幻視っぽい。米系テレビプロデューサー風に言えば、「元日は日曜で人が多く出ましたが、二日の月曜はお仕事なのでしょう。知らんけど」
事始め/歩めば伴う/向かい風/やかましくあり/涼しくもあり。どの方向に進もうが向かい風は受ける。速く走るほど向かい風はきつくなる。そんなことは当然で、どうということはない。「向かい風」のできることなどたかが知れている。行動に付き物のおまけイベントのようなもの。拍手だと思えばいい。
朝から町内ボラで公民館の枝木剪定。遠くで右翼の街宣の音頭が聞こえる。あ、そうか。きょうの午後は、津駅東口で共産党の志位さんが何かしゃべるんだった。昼ごはんもそこそこに自転車で駆けつける。志位さん、図体もでかいが声もでかい。周辺では、街宣車の音が、短調じみたBGMとなって盛り上げ。
語学は、震えながらの学習では上達しないのではないかと思う。あるとき以降は、「あ。それなら分かるよ」といった、開き直ったような態度が必要になってくるだろう。失敗に怯えおののいていたのでは身につかない。思いあがって、挑戦して、笑われて、やり直して。そんなふうに上達していけたらと思う。
テレビのほぼ全世帯普及に伴い、一転、無料となったラジオ放送で、気象予報士が「小春日和」と言っていた。ほほ、小春は初冬を指すから今ごろじゃないわ、などと笑っていたが、今年の旧暦10月は10月25日に始まるらしい。「小僧」が僧でなく「小江戸」が江戸でないように、「小春」は春ではない。
大切にしたいことと大切にしてきたこと
①「面倒くさい」を追放
②自分から離れるものを大切に
③きらいな人の長所をさがす
④謙遜……
②は、それらに特有の価値や基準があるから。不採用でもごみ出しでもしっこでも。
③では、実行に伴う不快感に耐えることで、自分じゃない「他人」になれそうで良。
スーパーにはよく行くが、某店では、燕麦2キロ(ポーランド)462円、鯖缶(タイ)88円、ウエハース(マレーシア)91円と、昨年来まったく変化なし。小売値は仕入れ価格に連動というポリシーでもあるのか。値上がりしているのはもっぱら国産。原材料費や人件費、輸入コストの高騰が原因やげな。
高い高いも買いの内。イオンのレジ前は大行列。しかしネコ餌の高騰。値札の付け替えと目方減らしの合わせ技でキロ単価は倍になった。去年、岸田某候補が総理になったとたん「所得倍増の『倍』は2倍という意味ではない」などと、より丁寧な説明を始めたが、ネコ餌の価格は、正しく『倍』となりました。
『サマーワイン』という1966年の曲(リー・ヘイズルウッド作)を聴いていると、メロディーが『夢は夜ひらく』に似ていることに気づく。自分なりに新発見でも、はや56年前の話で、ウィキペディアにもそう出ていた。偶然だということでケリがついたらしいが、納得できん。初出は66年2月らしい。
牧師の子に生まれながら耶蘇を完全に否定したドイツの哲学者ニーチェの言葉が「超訳ニーチェの言葉」として本にまとめられていた。その中に「飽きるのは自分の成長が止まっているから」という項があって得心した。二百円で古本屋の棚から自宅の棚に移動。わたしにとって聖書などではなく愛読書である。
向寒のみぎり、かの地では集団で毎時二百キロメートルを超えるスピードで走る四輪車がある。一方、その周辺では、渋滞のため、同じ四輪の輩が、その百分の一の速度すら出しかねている状況で、あまつさえ、この難儀に甘んじている運転者の多くが、かの高速度を体感するため拠金にまで応じているという。
★伊勢湾西岸から東に半島が突き出ている。その海岸沿いを運転しているので、知らない海の景色にばかりで不安が募る。水産会社の従業員である76歳の老婆が昇給がないと嘆くので、嫁が77歳の経営者の老婆と掛け合っている。自分はふたりを前に、人生百歳はないのだからと偉そうに講釈を垂れている。
自宅からほど近い道路という道路は、車で通るのでよく知っている。道路だけは。自分の中では、目的地以外の場所は車で通過するという価値しかなかった。でも、車道を少しそれた小径を歩いたり自転車で走ったりするだけで、風景の見え方、感じ方が変わってくる。手段と目的の違いなのかもしれなかった。
批判は自らに向かうという意味の「ブーメラン」というメタファーは、「雉も鳴かずば撃たれまいに」などと、被支配者層がクワを持つ手を休めて交わす合言葉のようで好きではない。挑戦を笑い、失敗した人を蔑む社会だった。いまは違う。ブーメランは政治家の道具だ。当たれば落ちる。戻れば受け止める。